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7/2(水) 3:48AM from細馬 猫道を抜けてお返事です。 |
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はい、細馬です。
はい、とか、おはよう、とか、こんばんわ、とか、ごめんやす、と書き始めると、なんかラジオのパーソナリティみたいでイヤミやなー。なんで「パーソナリティ」番組のタイトルは、呼ばれもせんのにああいう挨拶をするんでしょうか。そういえば、「燃焼系アミノ式」のコマーシャルは、呼ばれもしないのにどうして「はい」というかけ声から始まるのでしょうか。
いや、そんな話ではなく、「見る」という話でした、はい。
そう、「人が見ること」にはすごく関心があります。ジェスチャー研究をやってるのも、ジェスチャーをしている人だけでなく、ジェスチャーを見る人に興味があるからですし、ステレオ写真や幻灯や絵葉書に興味があるのも、もの自体への興味もさることながら、それを見てる人に興味があるからだったりします。
最近、覗きからくりにすごく関心があるのですが、その関心というのも、単に覗きからくりの中から見えるものに対するだけじゃなくて、覗きからくりを見てる人に対する関心が大きいです。
たとえば、覗いてる人の背中ってすごい無防備なんですよ。
もう、背中を見れば、その人がどれくらい自分の世界をおいてけぼりにしてからくりの世界にいっちゃってるかがわかる。逆に、口上に聞き惚れながらぐーっと覗いた世界に入っちゃってるときに、ぽんと背中叩かれたら、すごく驚きます。背中だけがこっちの世界に残ってるんだけど、それをもう忘れちゃって
るんです。
こういうのをぼくは「もれ」と呼んでます。背中をさらしてる人はただ覗き穴を覗いてあっちの世界にいってるだけで、別にこっちの世界に背中をさらすつもりじゃない。でもこっちの世界から見ると、その背中は、あっちの世界にいってるその人をこっちの世界にありありと「もらしている」。そういう背中を見ているうちに、待ってるこちらもその背中に誘われて自分も覗きたくなったり、その背中をどつきたくなったりしてしまう。
こういう背中の引力、ぼくはとても興味をひかれます。
「もれ」が起こってるとき、本人のいるあっちの世界とこっちから見える世界とが皮一枚でつながってる。その「もれ」からあっちの世界をたぐっていける。こっちにどーんと発信してくる確信犯の合図じゃなくて、うっかりもれてしまったものだけに、よけい信用がおけるような気がする。
あ、「見る」話のつもりが、もれてしまいました。
山下さんに誘われて見始めた文楽ですが、いやあ、いろいろ考えることが多いですね。最近は文楽の浮世絵まで買うようになってしまいました(財布が軽くなる・・・)。
文楽の場合は、客は劇場という箱の中にはまってますから、もう最初っからあっちの世界に入ってるようなものですが、しかし、見ているとやはり、あっちの世界にいったりこっちの世界にきたりしますね。「見えないお約束」といわれても、大夫がうううと泣き声をはりあげると、やはりその顔を見ずにはいられないし、見てみると、顔まで泣き面になっておられる。三味線が鋭いバチを入れる。しかしそうやって大夫に目がいったり三味線の手に目がいっているときは、人形はおろそかになる。
ぼくはまだ、三度しか文楽を見てませんが、まだ見所が定まりません。よそに目がいっているときに観客からどっと拍手が来て、しまったと思って人形を見ると、もうそのあざやかな所作が終わっている、なんてことがあります。文楽を見てる人って、この辺の悩ましさをどう解決してるんでしょうか。
花袋の文章、とりわけ紀行文は、あれこれ読みましたが、どうもだらだら長いばかりであんまり詩情をそそられない。書いてることもカッコワルイ。すぐに「何ともいわれない」なんて形容を使ってしまうところがヴォキャブラリに乏しくて何ともいわれない。
ところが、花袋の書いている土地に行ってあれこれ見て、それからあらためて読むと、うんうん、そうなんだよとうなずいたり、え?昔はそうだったの?と驚いたり、けっこう楽しめるから不思議です。ブンガクというよりも、むしろ「地球の歩き方」に近いのかもしれません。
「蒲団」もそうですし、「第二軍従征日記」のような従軍日記や「東京震災記」のようなルポルタージュもそうなんですが、花袋の考え方は、何かきついこ
とに会うたびにぶれてしまう傾向があるように思います。しかし、ぶれが文章にもれてしまうという点では、よい書き手だったんじゃないかと思います。
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