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師匠

河 内 「これはなかなか(笑)、今年は曽根崎心中350年、鴈治郎さんがお初50年、いよいよ最後かもとおっしゃってますが、誰も信用してませんが(笑)」
扇乃丞 「玉手とか政岡とか芸の力だけで見せられるものと違って、お初は本当に階段から落ちたり走ったりしなくちゃいけませんからね。身体がきかなくなったら出来ないっておっしゃっていますね」
河 内 「この前お伺いをしたら、精密検査をされてどこも悪いところがなかったとおっしゃってました(笑)。近松座はエネルギーいるでしょうねえ」
扇乃丞 「今は松竹さんがして下さってますが、そうでしょうねえ」
河 内 「鴈治郎さんという師匠を身近に見られていかがですか?」
扇乃丞 「皆さん師匠が好きで入門すると思いますが、役者としても、そして人間的にもとても尊敬しています。素晴らしい師匠だと思いますね」
河 内 「橘三郎さんの師匠、富十郎さんも芸が若々しいですね」
橘三郎 「そうですね。はつらつとしていますよね。やはり心の持ち方なんでしょうねえ」
河 内
 「70歳を過ぎても子供さんが出来るという・・・」
橘三郎 「(苦笑)・・・あの、ともかく、我々の師匠お二人はスタミナがあります(笑)。この間、国立で成駒屋さん(鴈治郎)の忠臣蔵がありましたが、七役お一人でなすって、お弟子さんたちの方が"許して下さい(笑)"って感じ・・・。やっぱり若い時の修行でしょうねえ。
鴈治郎さんなんかは20歳くらいでトップスターで、ずっと主役をされてこられた訳だから、耐久性があるっていうか、そのグワッーと勉強したもんが違うんでしょうねえ」

扇乃丞 「大きい役をお若いうちに三役四役毎月やってらっしゃったそうですからね」
橘三郎 「そうそう、それだね。僕が入門した頃なんてうちの師匠も凄かったですよ。 師匠が30代後半の頃でしたが、6本の芝居のうち6本出てましたよ。序幕が太十の光秀、勧進帳の富樫、名月八幡祭、夜は、十六夜清心、で勧進帳の弁慶(笑)、最後は勘弥さんと何か踊り。そんなのが毎月毎月でしたからねえ。だから、身体が上手くコントロール出来るんでしょうね」
河 内 「そういえば、この前テレビで雀右衛門さんの筋トレを見ました。凄かったですね。富十郎さんというと、前名が竹之丞、その前が鶴之助で、古い関西のファンは鶴之助で馴染んではる訳ですけれども、入門された頃の名前は?」
橘三郎 「鶴之助でしたよ。もう東京におりましたので、僕は大阪には住んではおりません」

河 内 「さっき血液型をお伺いしましたが、橘三郎さんはO型だそうで、富十郎さんは典型的なB型だそうです(笑)。ひとことで言うと師匠はどんな方ですか?」
橘三郎 「うーん、僕はやはり天才だと思いますね。ただただ芸に関しては怖かった。
僕は勉強会で主役をさせて頂いたことは何度かありますが、今月、弥作の鎌腹で、主役をしてお給料を頂くというのは初めてなんです。これがちょうど40年目でして、40年前の3月、卒業式が終わって翌日に東京に行ったらその日から舞台稽古で・・・。あれから40年です。今回の公演はちょうど節目の記念になるような仕事ですね。
とにかく初期の頃は叱られるのを夢に見ました。それ位よく叱られました。
4年ほど内弟子をしていましたから、電話の応対の時も後ろに立っているんですよ。"君でなさい"ってね。必ず終わってから"もっと口を大きく開けて話しなさい"って言われましたね。僕は桑名の田舎の出なので標準語がそう喋れません。"あのー"とか"そのー"とか言ってしまうんですよ。"それは相手に失礼だし何言ってるのか分からない、はっきり言いなさい"って。
そりゃ芸に厳しかったですからねえ。道成寺なんかで後見でついていてちょっとでもミスすると"僕は君を射殺してやりたいよおォ〜"(笑)って。本当に芸には厳しかった・・・そうしたお陰で今もこうして芝居をさせて頂けているのだと思いますね」
河 内 「何度も芸に関して、と、おっしゃってるということは私生活はどうだったんですか?」
橘三郎 「私生活は優しかったですよ。思いやりとかは凄くある方なんですよ」
河 内 「私生活は柔らかいんですね(笑)」



素顔、とちり

河 内 「そういえば、橘三郎さんは随分お洒落だそうで、普段もボルサリーノにトレンチコートで、とってもダンディでカッコ良いんだと聞きましたよ」
橘三郎 「なんか帽子かぶったらマフィアみたいだとか言われて(笑)帽子は好きなんですよね。まあ、ご覧になったらわかりますが、ハゲ隠しですよ(笑)」
河 内 「(笑)絵もお上手なんですね。彫刻とか」
橘三郎 「絵は好きですね。
彫刻は最近はあんまりやってませんが、袴板といって、袴の後ろがずれないように刺すL字型のこれ位の板があるのですが、どなたかが大きな名をご襲名された時にお祝いにね。ゆかりのものを彫って差し上げると喜んで頂けますね」

河 内 「扇乃丞さんはお兄さんがニューヨークにいらっしゃるとか?」
扇乃丞 「20年位いますね」
河 内 「何をなさっているんですか?」
扇乃丞 「基本的には演出家で、たまにオーディション受けて役者をしています。この頃は自分で本を書いて、それをこっちでやったりとかもしています」
河 内 「日本文化の紹介みたいなこともなさってる訳ですか?」
扇乃丞 「そうですね。前に橘三郎さんがニューヨークで歌舞伎のワークショップをされて、橘三郎さんについてさせて頂いたみたいです」
河 内 「橘三郎さん、英語出来るんですか?」
橘三郎 「出来ません(笑)。彼(扇乃丞さんのお兄さん)は、こういう御家の人だから芝居のこと、よく知ってるじゃないですか。だから、まあ僕が六法やったり、お客様を舞台にあげて六法教えたり、素襖落の顔をして衣裳着けて、素襖落(すおうおとし)の物語、那須与一の物語を踊るんですが、そのバックグランド、平家がどうのこうのとかいうのを英語でバッーとやってくれるんですよ。そういう知識があるから・・・。だから、踊る前にそのバックグランドがお客様には皆わかっちゃってるから凄いんですよ」
河 内 「歴史的背景を英語で説明するって凄いですね」
橘三郎 「そうなんですよ。彼は芝居もやってるから歌舞伎の色んなこともわかってるじゃないですか。色んなのをやりましたよ。俊寛、勘平、弁天小僧。
コロンビア大学とかの色んな大学に、東洋文学の専攻の教授で、弁天小僧を英訳したりしている先生とかがいて、そうした所を大学まわりするんですよ。珍道中で面白かったですね」
河 内 「歌舞伎役者さんは海外の公演も多いと思うんですが・・・富十郎さんもオーストラリアに行ったりとかなさってましたね」

橘三郎 「僕も師匠と一緒に8回行きましたよ。それ以外はこちら(扇乃丞)のお兄さんとか、他レクチャーとかで回りましたけど」

河 内 「なるほど。ところで、ここで、お客さんからの質問で、いつも完璧なお二人ですがドキッとしたような失敗があったら教えて下さいというのがありましたが・・・いかがですか?」
橘三郎 「とちりは数多くあります(笑)。科白忘れちゃったりとかね。完璧に覚えていても、ある日突然くるんですよ。ある日突然ね。 この間も歌舞伎座で、吉右衛門さんの幡随長兵衛の劇中劇の仇役で、真っ白になっちゃってわかんなくなって、うーん"うわっ〜、おわっ〜(笑)"って。 後は坊さんで草履間違えて履いて出たりとかね。30人くらいの坊さんが白の鼻緒の草履はいて、ズラッーっと花道から出るんですけど、一人だけ黒の鼻緒だったりとかね(笑)。皆それを黙ってましてね。揚幕が開いてチャリーンと客席に僕が一歩出た途端に、後ろから小さな声でね"兄さん、草履違ってますよ"って(笑)。コーヒー10何杯おごらされましたけどね(笑)」
河 内 「おごらされるんですか」
橘三郎 「もちろん(笑)」
河 内 「(笑)扇乃丞はどうですか?」
扇乃丞 「あんまりないんですけどね。上方歌舞伎会の時でしたか、2度目の弥助(すし屋)だったんですけど、もうすぐ科白を言わないといけないのに、それこそ真っ白になって、"どうしよ、どうしよ、まあ、いいや"って思ったら出てきましたけどね(笑)」
橘三郎 「彼は細心だからそんなことないんですよ。僕は散漫だからね(笑)」
扇乃丞 「ああ、でも、誰かに話かけられてきっかけをトチッたりとかありますよ。もうそこが始まってたり(笑)」

河 内 「ちょっとご家庭のことを伺いますが、お住まいは大阪市内?」
扇乃丞 「そうです」
河 内 「お子さんの言葉はどっちですか?」
扇乃丞 「それはもうコテコテの関西弁です(笑)そのうち僕の言葉を直されるんじゃないでしょうか」
河 内 「将来は芸能の世界の方にとかお考えですか?」
扇乃丞 「いやー、それはどうでしょう。本人次第ですね」
河 内 「家に帰って、そうしたホッコリした雰囲気があるのは上方歌舞伎にはいいですよね。橘三郎さんも大阪にも家庭を持たれたらどうですか(笑)」
橘三郎 「大阪、にも?(笑)。やっぱり本当に住んでないと、丸暗記してるんではいけないんでしょうけどねえ。でも僕の歳ではちょっと遅いでしょうけどね(笑)」



予定、抱負

河 内 「(笑)では、そろそろ今後のご予定をお伺いしたいと思いますが、今年の上方歌舞伎会は?」
扇乃丞 「8月の最終の土日で、出演する予定です」
橘三郎 「僕はちょっとわからないんですよね」
河 内 「5月の近松座の方はいかがですか?関八州繋馬という大変珍しい芝居ですが、実はこれ、享保年間、1724年ですか、近松最後の作品で上演されました。劇中に山が燃えるシーンがあるんですけど、大文字みたいに大が燃えると大阪が燃えるんちゃうかというデマが流れて、本当に千穐楽に堀江で火事がおこって大阪の市中の7割焼けたという、道頓堀は二座を残して全部焼けたというんですから、近松はショックを受けたと思うんですよ。
先年、西田敏之さんの"八代将軍吉宗"というテレビがありましたでしょ。あの時、江守徹さんが近松やってはったんですけど、焼跡を呆然と歩くシーンがあって、近松はその後すぐに亡くなるんですよね。
昭和40年代に東京の国立劇場が出来てすぐ、前の三津五郎さんがなさったそうですが、私も観たことがないので大変楽しみにしています。
今のお芝居"弥作の釜腹"、これも珍しいお芝居ですね」
橘三郎 「そうですね。これは大阪で文化文政時代に初演されたお芝居で、結構人気のあった作品らしいんですが、終戦後はだんだん役者がいなくなって・・・。
この前、鴈治郎さんがおっしゃってましたけど、先代の鴈治郎さんが弟役をされて、魁車さんとかがよくおやりになってたらしいです。後、河内屋さんが昭和40年代かなんかに1度歌舞伎座でだされたんですけど、それ以来はかかってないみたいですね。忠臣蔵のために色々あったという外伝の一つです。先代の吉右衛門さんの秀山十種にも入ってたらしいんですけどね。
グロテスクで悲惨な話なんですけれど、なるべくそうならないよう、笑って頂けるところは笑って頂けるよう強調して、そして泣いて頂けるところは泣いて頂いて。後は気持ちの起伏があって突然そうなっちゃうみたいなことがあるので、そのつなぎ目が上手く、不自然に見えないようにもっていきたいですね」


河 内 「扇乃丞さんの日高川は文楽では割合されてますが・・・」
扇乃丞 「そうですね。安珍清姫というと歌舞伎では道成寺がポピュラーになってますけどね。舞踊会では結構踊られていますが・・・。
人形振りなんですが、二人とも人形ぶりで。
歌舞伎で人形振りというと櫓のお七とか、奥庭の八重垣姫なんかで、なかなか清姫はでないんですが、今回はお三味線の鶴澤時若さんがご存知の振りを習いました。普通の歌舞伎舞踊の人形振りとはまた違って、素朴な味わいがあります」
河 内 「今まで人形振りはなさったことがあるのですか?」
扇乃丞 「いえ、初めてです。いわゆる日本舞踊の動きをしちゃいけない、踊っちゃいけないんだけど、あんまりカクカクするのも変ですし(笑)、その目に見えない兼ね合いが難しいですね」

河 内 「お二人の今後のご予定も聞いてみたいと思いますが・・・」
橘三郎 「4月は歌舞伎座で、5月はまだわからないんですが、6月は曽根崎心中のロシア公演で平野屋九右衛門をさせて頂きます」
扇乃丞 「4月は歌舞伎座で、5月は近松座、6月は橘三郎さんとご一緒にロシアです」
河 内 「最後にお二人のこれからの抱負もお聞かせ下さい」
扇乃丞 「関西の方で生活しまして、これからも一つ一つ上方のお芝居を勉強して、上方の役者として歩んで行きたいと思います。
また、今日の舞踊、日高川は人形ぶりで、大変珍しいものですので、どこまで出来るか分かりませんが、精一杯勤めておりますのでお楽しみ頂けたらと思います」
橘三郎 「私も名前が嵐ですので、大阪で一生懸命勤めて嵐という名前を知って頂ければ、ご恩返しにもなると思いますので・・・」
河 内 「あ、そういえば、あらかん(嵐寛寿郎)ともお付き合いがあったのですね?」
橘三郎 「ええ。吉三郎、橘三郎、、璃寛、あらかんさんもそうですけど、皆、璃寛系という系図のある名前ですので、少しでも嵐の名前を大阪で知って頂きたいと・・・。ですから大阪でももっと芝居をさせて頂きたいと思っています」
河 内 「嵐璃覚さんとか、雛助さんとか、そして残念ながら徳三郎さんもお亡くなりになって・・・」
橘三郎 「今、かんむりの嵐冠十郎さんと、現役では、今日一緒に出ます嵐徳江くんと私の二人が嵐という大阪の名前です。頑張っておりますので宜しくお願いいたします」

源甲斐智栄子
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