3月26日(水)
部屋を片付ける。掃除、洗濯、大量にたまった郵便物の処理。BGMは、もちろん忌野清志郎。清志郎と握手したのなんて夢のようだ。昼から原稿書き。進まず。戦争がいっぱい。テレビも新聞も。
3月27日(木)
ログのリードと英文用の原稿書き。進まず。熊野ボケで仕事の仕方を忘れている。ようやく仕上げ、その後、請求書書き、Ai発送などの事務仕事。もう夕方だ。深夜にフィールドワークのメーリングリストに、「戦争が始まって1週間」というタイトルのメールを送る。
りかまるです。
戦争が始まって1週間たちました。
川中くん、中西さん、佐藤さん、長らくお返事しなくてごめんなさい。
特に、川中くん。あなたの気持ちは私の気持ちとよく似ている。それだけに、どうお返事していいのか、分からずにいた。ずっとひっかかったまま、ずいぶん長い時間が過ぎてしまいました。
戦争が始まった時、私は大阪の国立文楽劇場の衣裳部屋にいました。古典芸能の楽屋にもテレビはあり、ニュースは流れてくる。温かな日差しが差し込む部屋で、美しいお姫様の衣裳の直し縫いをしている人の手元を見ながら、戦争が始まったことを聞いていた。文楽は、首(かしら)や手足は、江戸時代のものをいまだに現役で使っていたりする。欠けた部分の木をはりこんだり、縫い直したりしながら、使い続ける。人間よりはるかに長生きする人形たち。
一度、大量に人形が失われたことがある。第二次世界大戦の空襲で、すっからかんに焼けてしまったそう。でも、淡路島に住んでいた文楽好きのお医者さんのコレクションを譲り受けて、戦時中もやはり文楽は上演されていたらしい。
----空襲警報が出ると、三業もお客さんも、急いで防空壕へ避難します。空襲警報が解除されると、一同またゾロゾロ舞台と客席へもどります。太夫さんが「どこまで語りましたかいな?」と言うと、お客さんから、どこどこまでやでと答えが返ってきて、客席中大笑い、B29の爆撃でいつ死ぬかわからないというのに、長閑なものでした。
----三代目吉田簑助著『頭巾かぶって五十年』(淡交社)
文楽が特別すごいワケでもなく、いろんなことが戦時中でも行われていたのだろう。だからといって、イラクの人達が呑気に芝居を見ているわけじゃないのは知っている。だけど、どこか、大事なことに触れているように思う。
翌朝、21日から私は和歌山県の熊野に入りました。あるアート・プロジェクトのスタッフとして、那智の滝のそばにずっといた。そこにはテレビもなく、その話をする人も時間もなく、のどかな観光客がおとずれ、滝がえんえんと落ちていくのを見ていました。でも、ホテルに戻るとやはり戦争のニュース。どこまでも私達は戦争から、情報から逃げられない。
プロジェクトのひとつに、忌野清志郎のライブがあった。雨天のため、会場と時間をずらしての大騒動の果てのライブで場所は体育館。800人ほどの観客の前で、えんえんと歌い続ける清志郎。発禁ものの歌から、古いフォークソング…もう何十年も前の反戦歌がリアルに重なる。そのことが悲しかった。なぜ懐メロとして聞けないのか。情けない。本当に人間は情けない。
プロジェクトが終わった翌日、地元の人達に教えてもらったとっておきポイントをまわった。崖のような石段のある高倉神社。祭の日、この石段をたいまつを持った2000人の男が駆け下りる。田んぼの真ん中には、1500年の楠があった。ひとつで森のように茂る大きな大きな樹。昔切られそうになった時、南方熊楠が柳田国男に手紙を書いて、伐採を阻止したらしい。それがホントかウソかは分からないけれど、1500年の間に誰かが切ってしまえば、ここにはなかったのものだ。
それから熊野川のほとりに住む親戚のおばちゃんちで、友だち二人と一緒に"おかいさん(茶粥)"とゴボウとレンコンの煮たのと漬け物とサンマを食べた。サンマは私が気をきかせて買ってきたものだが「こんなやせっぽちサンマは熊野のんじゃない」と怒られてしまった。"おかいさん"は、私は大阪でも精神が病んだ時に作るものだけど、初めて食べた友だちも何度もおかわりしていた。
食事の前も、最中も、後も、おばちゃんは昔話を話し続ける。神武天皇やら小栗判官と照手姫やら平家の落ち武者やら祭の神官はオオカミの遠吠えを真似ているやら、糸を紡ぐように百年前、千年前の話が出てくる。
うちの父方のじいさんの話を思い出す。戦争中、百姓だったじいさんは、村の寄り合いで「敵が攻めてきたらどうするか」「竹槍で闘う」という話しで熱くなっている中で、「オレは家族を連れて山の中に逃げる。2年でみんなを食わせる畑を作る」と言ったそうだ。また、兵隊にとられたオジサンは、ジャングルで他の隊員がわずかな食糧を探している間、ゴロゴロ寝ていて、助かったそうだ。それは、戦時下で文楽を見るのに似ている、と思う。
何が言いたいのかって? 私にもよく分からない。とにかく、「生き抜いてやる」ことが、何よりも強い抵抗じゃないかと思ったのだ。生活すること。食べること。笑うこと。泣くこと。人に"おかいさん"をふるまうこと。。。
いろんな反戦運動のメールが届く。私は、ひとつも返事していないし、HPも見てない。
送ってきてくれた人それぞれの想いが分かるものに関しては、つらいし、罪悪感もあるのだけれど、おそらく"この戦争"に関して私は動かない。テレビの向こう側で死んでいく人に対して私の責任だとも思わない。ただ、本当に生き抜いていきたい。この安穏とした日本の中で、「敵が攻めてきたら逃げる」と言えるように生きていたい。
2003/3/27深夜に 山下里加 |
3月28日(金)
朝からリハビリ。そのまま、バックにまるをつめこんで、動物病院へ。混んでいる。犬4匹、猫4匹。先生も大変だ。結局2時間半かかった。神戸か京都に行こうと思っていたのに。3時半、ぴあ打ち合わせ。4時「珍しいキノコ舞踏団」のグラフ公演へ。可愛くてお洒落なダンス。どこまでも可愛くてお洒落だった。7時、森村泰昌さんのMEMでの個展オープニング。大正時代に建てられたレトロなビルの一室で、森村さんがゴッホなどの有名絵画に扮する前、というより直前の、作品が展示されていた。1985年前後だから、もう18年ほど前か。。。しみじみ。
3月29日(土)
朝から『プレジデント』の原稿書き。簑太郎さんの三世桐竹勘十郎襲名についての記事。うううう、出来ない。取材もいっぱいして、頭の中では完璧に出来上がっているのに、書き始めると違和感がある。苦しい。神戸アートビレッジセンターへ。新開地の展覧会。良くできてた。電車の中で原稿の構成を考え直す。やはり自分の実感がないからダメなんだ。夜、雨ちゃんが泊まりにくる。
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