この「仮名手本忠臣蔵」というタイトル、何故つけられたかにも諸説色々あって、仮名は「いろはにほへと」の47文字を四十七士と見立て、四十七士の忠臣ぶりを手本に、蔵に収めて保つ、また、蔵は大石内蔵助の蔵でもあるとか何とかと、他には、いろは47文字を7文字ごとに区切って最後の一字を続けて読むと
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
「とかなくてしす」。すなわち「咎(とが)無くて死す」で、赤穂浪士は罪が無いのに切腹をさせられた、という幕府批判の意味が秘められているなどという説もあります。
ある歌舞伎役者さんに伺ったところによると、「仮名手本忠臣蔵」は普段よりも更にお稽古期間が短く、また、この狂言は、どの役がついても、科白は入っているのが当たり前とかも言われているそうです。
それほど、役者さんたちにとっても特別な「仮名手本忠臣蔵」は、昔は、塩冶判官役の役者は切腹の後、そのまま駕籠に乗って家に帰った・・・それはその人のために、皆がその後仇討ちに燃えるのに、楽屋でウロウロされていては芝居がやりにくい!・・・だからだそうで、とにかく「仮名手本忠臣蔵」には、多くの名優達によって工夫され伝授されてきた心得や演出の面白い所が沢山あるのですが、関西人である私にとって、どうしても興味がそそられるのは、江戸と上方の演出の違いで、一言で演出の違いと言っても、それにはそれなりの理由がある訳で、役の性根の解釈が僅かに違うところを感じながら芝居を楽しんだりしています。
忠臣蔵は、その世界から発展して、様々な外伝も数々生まれています。「東海道四谷怪談」は、一般的にその最も有名な演目と言えると思いますが、忠臣蔵の数々のエピソードは、まだまだ無知な私がここで思いつくままに書くより、書かれた本が沢山ありますので、討入り300年の今年、私ももう一度改めて読み直したいなと思っています。
因みに来年のお正月、十何時間の恒例の時代劇は、中村吉右衛門さんが蔵之助の忠臣蔵。また、3月18日、19日には忠臣蔵の余話「弥作の鎌腹」という狂言が、大阪厚生年金会館芸術ホールで歌舞伎フォーラム公演として上演されます。
赤穂浪士討入り「赤穂事件」から丸300年、節目の年らしく、私は一年で「仮名手本忠臣蔵」の六段目だけでも、劇場で6回も観てしまいました。でもそれは、名古屋の御園座、東京の国立劇場、歌舞伎座とで、この節目の年に、関西での上演はありませんでした。うーん残念。
でも、私の住む関西には、数多くの赤穂義士達の足跡があります。河内厚郎先生が企画された上村吉弥さんと行く忠臣蔵バスツアー、11月の始め、それにスタッフとして参加して来たのですが、吉弥さんのお弟子の純弥さん、片岡我當さんのお弟子の當史弥さんもいらして下さって、お天気もよく、スタッフ一同自画自賛?のとても素晴しいコースでした。
時代は流れたとはいえ、赤穂義士達が手にした品々を見、赤穂の風土、空、海を感じると、単純な私は、思いっきり忠臣蔵の時代、元禄期が近くなった気がして、そして、そんなことを頭の隅において、また「仮名手本忠臣蔵」を観たいと思います。
「あら楽し 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」・・・そう言って来世に行こうとした大石内蔵助。「浮世の月にかかる雲なし」・・・いさぎよく爽やかで、自分もこんな思いで人生を終えることが出来たらと憧れを持ちます。芝居で、本で、忠臣蔵の足跡を訪ねて、何度も何度も大石内蔵助という人に接する度に、私はこの辞世の句を、また更に深く考えたり感じたくなるのです。
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赤穂城 城址 |
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赤穂城
天守閣が建つ予定だった地から、
のどかな赤穂の風景を望む |
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石の大石内蔵助さま
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大石内蔵助 屋敷跡
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ピカピカの大石神社 |
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赤穂義士の菩提寺「花岳寺」 |
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花岳寺初代名残の松
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花岳寺 忠義塚 |
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息継ぎの井戸 |
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風光明媚な赤穂御崎
向こうには小豆島が見えました |
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大石名残の松
大石は離縁した妻子を、妻の実家大坂へと、この赤穂御崎から見送りました |
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