九段もの長編ですから、この前後や中間に色々と余談はありますが、歌舞伎で現行されているものはざっとこんな話で、三段目住吉鳥居前、六段目釣船三婦内(中央区高津二あたり)、七段目長町裏と通されることが多いのですが、お芝居探検隊では一段目のお鯛茶屋(堺)から訪ねてみました。そこは今は紡績工場跡の碑があるだけで何もなく、その紡績工場が出来る前にお鯛茶屋が実存したと、堺市史に僅かに記されているばかりで、当時の文化人達が立ち寄った芝居にも取り入れられる程に賑わったお鯛茶屋も、時の流れとともに忘れ去られるのだなあとしみじみとしてしまいました。私が芝居好きでなければ、きっとお鯛茶屋の名さえ知らなかったのでしょうねえ。
そういえば、その近くに二代目中村富十郎の住居跡もあって、この方は、天保の改革で大坂ところ払いになった名優でした。これは碑があるのですが、その碑は、パチンコ屋さんの角に隠れるようにポツンとあって、私達がそれをゾロゾロと見学していたものですから、パチンコ店の従業員の人もお客さんも、何事かとビックリされていました。
昭和61年8月に私が所属する関西・歌舞伎を愛する会は、国立文楽劇場で「夏祭」を自主公演したことがあります。黒門市場の人達にも御神輿を担ぐ役で参加して頂き新聞などでも話題になったそうですが、当時は故・十三世片岡仁左衛門さんがまだお元気で、松嶋屋の形で、二段目、内本町道具屋の場、横堀河岸辻番小屋の場も上演され、舅・義平次や磯之丞の性根、凄惨な殺し場となる布石がわかってとても面白いものでした。この通し方も是非、もう一度観てみたいものです。
お芝居探検隊では、堺のあと、住吉鳥居に向かったのですが、大阪市北区生まれで、何かといえば天満の天神さんだった私は、芝居に絡むようになる前はあまりご縁のない住吉さんでした。今は、年に何回行くのやらという感じで、藤原定家が熊野詣の途中に参詣して後鳥羽上皇と歌のやりとりをしたとか、南北朝時代には十年近くも南朝の皇居があったとか、そんなことを知れば知るほど、歴史深い住吉大社が文学や芝居でみせる横顔が素敵に思えています。
本も芝居も、年齢を重ねて改めて見直すと、随分違う感想を持つことがありますが、何気なく読みすごしたもの見過ごしたものが、こんな意味を持っているのかと時に滅茶苦茶感心していますが、余談ながら左卜全とひまわりキティーズ(調べて分かりました)の「老人と子供のポルカ」。物凄く小さな時だったので、あの時は何のこっちゃら解らないで歌って?ましたが、つい最近、鼻歌でこれを歌っていて(変な奴です)、突然に今更恥ずかしながら「ゲバゲバ(内ゲバ)」「ストスト(鉄道スト)」「ジコジコ(交通事故)」の意味が解かりました。目からうろこが落ちるというと本当に大層ですが、とても気持ちが良かったです。
で、住吉大社、ここの反橋は太鼓橋とも呼ばれていますが、ここを渡るたびに私はとてもドラマチックな気分になります。
一つは、佐藤春夫の「晶子曼陀羅」を思いだすからで、橋の上から手を差し伸べた与謝野鉄幹のその手に、山川登美子はすがり、晶子は独力でよじ登った・・・二人の女のその後の生き様が表されているようで、人というものは総じて、ほんの些細な行動にも人生さえ示す時があるのですね。芝居も登場人物のふとした言動が、実はとても細かく役の性根を表わしていたりします。
もう一つは川端康成の「反橋」です。私は30歳を過ぎてからこの短編を読み直したのですが、しばらくはこの橋を渡ると妙に緊張するという位衝撃を受けました。それは橋の傾斜の厳しさだけではなく、「反橋」の上で聞いた母の告白から私の生涯が狂ったと康成が書いたような、彼の人生の始点とも言える場所がこの橋だったのだということから、反橋に得体の知れない奥行きを感じて、そうして登っていたためかも知れません。
「反橋」の中で彼はこうも書いています。
「私は古いものを見るたびに人間が過去へ失って来た多くのもの、現在は失われている多くのものを知るのでありますが、それを見ているあいだは過去へ失った人間の命がよみがえって自分のうちにながれるような思いもいたします」と。
私が古典といわれる舞台を観ているときに漠然と感じている何かが、この言葉の中には表されているような気がするのです。
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