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『都市文化研究報告 その4』
中間的考察(娯楽と遊戯)
篠原雅武
(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程二回生)
 前々回と前回、築港赤レンガ倉庫におけるアーツアポリア事業、及び、CASを、具体的な事例として取り上げ、その理念、活動状況等に即し、考察を進めたのだった。前者は、娯楽的欲求の充足を目的としない、創造型の文化事業(商業性を目的としない事業であり、かつ従来の、日常的な生活習慣からして馴染みの無い、異質な刺激を生じさせる現場を生産することを目的とする営み)の展開が目論まれる一拠点である。後者は、現代美術についての、「観る人」「造る人」「見せる人」と、三者が相互分断された状況が容認されており、かつ、一般的な社会の趨勢(すなわち、生活諸般の事柄の、消費対象化)に追随しているという現状認識を踏まえ、そこから発して状況を変えることを目論む実験室であるとされる。またこれら二つの活動拠点は、大阪市内に位置するが、前者は、近隣の商業施設や居住区域から、道路等により、物的に隔離されており、後者は、オフィス街という、美術からして関わりの薄い諸施設が集積する地域に、気づかれにくく匿名的に位置している。いずれにおいても、創造的、実験的、非商業的といった活動内容の特質からして関係が無いとされる諸々の状況に対し、距離が設けられている。そしてこの距離は、日常生活の延長にある、娯楽的活動との混淆を防ぐという観点からして欠かせぬものでもある。それは、芸術文化創造のための領域と日常生活のための領域とを区別する境界としての距離である。
 今回は、今までの考察を踏まえ、その途上、十分に論じ切れなかったことを中心に、理論的に述べてみたい。殊に、開放/閉鎖、非日常/日常、非娯楽/娯楽、非商業的/商業的といった諸々の対概念については、その意味を十分に確定するべく、努める必要があるだろう。


(1)娯楽(施設)の閉鎖性について

(a)上記の二拠点は、それらが位置する地域との関わりからすると隔離されており、一見閉鎖的である。けれども、その閉鎖の意味は、次のように言われる場合の閉鎖のそれとは、異なる。
 「閉鎖空間とは「遊園地」であり、そこでは、病院のなかで病気が「慢性化」するように、娯楽そのものが「慢性化」しているのです。学校や大学の「キャンパス」における教育、美術館や劇場の文化も同様です(強調は筆者)」(注1)。これは、マッシモ・カッチャーリが、2002年4月2日に東京で、「現代都市の哲学」と題して行った講演からの引用である。
彼がここで言う閉鎖空間は、まず引用文からも明らかであるが、(慢性化する)娯楽を内包し、それが展開するのに適した空間である。またこれは、現代の資本主義的体制下における都市建設の、彼により、次のように認識される論理に基づく空間でもある。すなわち、新たに建設が行われるにあたり、「生産的、商業的、行政的目的の投資によって」定められるという論理、実生活の要求に即して存続してきた従前の都市の「あらかじめ構成された機能を持つあらゆる「グリッド」を無視し、純粋に商業的かつ投機的な論理のもと」、「偶発的に」(実生活上の要求を踏まえないという意味での偶発性。すなわち、投機目的からして適していると判断される所に建設する、つまりは投機のバクチ的判断に建設計画を従わせるという意味での偶発性である)(注2)形成されてゆくと彼により認識される、現代の都市の建設論理を基とする空間でもある。カッチャーリは、娯楽と商業目的の結合を基とし形成される空間が閉鎖的であると言うのである。
 そういった閉鎖的な施設には、単一の娯楽と照応する単一の施設から成るものだけでなく、複数種類の娯楽を、それぞれ提供するのに適した「複数の機能を内包することで自己の内部に「閉じこもる」」(注3)複合文化施設もまた含まれる。すなわち、同一の敷地や区域の内部に、娯楽商品の消費者の様々な欲求に応じるのに適する具合に、施設が複数混合されて、そこに外観上、多様性が形成されるとしても、それが娯楽という観点からして単一な欲求にのみ応えるものである(あらかじめ述べておくなら、消費者各々において、《個性的に》分化した(分化させられた)欲求は、娯楽という共通の根から派生した欲求である)からには、そこはやはり閉鎖的である。
 ここで言われる閉鎖の意味については、まさにそこに内包される「慢性化する娯楽」のことをも考慮に入れて、厳密に考察すべきである。
 なぜなら、カッチャーリにより閉鎖的であると見なされているこれらの施設にとって、娯楽はあくまでも集客のための手段であり、主たる目的は集客=営利にある。その限りにおいては、閉鎖的であってはならないはずだからだ。すなわち、これら施設は、ただただ娯楽を商品として提供し、消費者の欲求を充足させることを目的とするのではなく、むしろ、その充足の見返りである売上高を、数量的に増大させることを主たる目的とする、いわば営利のための施設である。その限りにおいては、多くの人を集めるための施設である。こういった施設が、集客という観点からして閉鎖的であるなら、その営利目的に反するだろう。だから、営利‐商業目的に適う物的形状(娯楽を求める者なら誰であれ、不特定多数の者に向けて開けているといった意味での開放的な形状)を志向せざるを得ない。
 またこの形状には、ただ開けているだけではなくて(気軽なアクセスを可能とするだけではなくて)、集客力、すなわち人を吸引する力を有することも、要請される。すなわち、娯楽欲求をあらかじめ持っており、それを充足すべくわざわざ出向く積極的(能動的)娯楽消費者に開けているだけでは不十分である。さらに、もともと入るつもりはなかったのに、通りかかって施設を目にし、そこではじめて娯楽への欲求をかきたてられて入ってしまう、消極的(受動的)娯楽消費者を引き寄せる魅力を有することも、要請されるだろう。
つまり、こういった施設においては、娯楽は手段で、集客が目的である。その限りにおいては、閉鎖的でなく開放的であること(開けていること)が志向される。にもかかわらず、カッチャーリは、こういった施設について、娯楽を内包しているからには閉鎖的であると言うのである。
 単一的であれ複合的であれ、娯楽のための文化施設、およびそこに形成される人の集合は、たとえ多くを集めたところで、娯楽のための施設である限り、閉鎖的である。つまりそこでは、集客目的の、外観上の開放性と、娯楽ゆえの閉鎖性とが一致する。

 ここで言われる娯楽的施設の閉鎖性の意味をより明瞭とするためには、娯楽そのものの特質に即し、考察する必要があるだろう。

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