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(b)娯楽(それは例えば『アクションプラン』では、創造型の文化活動と区別され、気軽に楽しむためのもの、すなわち既存のものの見方、考え方からして安心な刺激の発生源以上のものでありえない。すなわち、消費者の娯楽的欲求を、安心に充足するために提供されるものと定義される)が閉鎖的である、このことにつき厳密に考察を展開するにあたっては、アドルノの「文化産業」を巡る議論が極めて示唆的である。それは、ホルクハイマーとの共著である『啓蒙の弁証法』の第四章「文化産業—大衆欺瞞としての啓蒙」、あるいは『ミニマ・モラリア』の随所において述べられる。執筆時期は、前者が1939年から1944年であり、後者が1944年から1947年である(注4)
 彼によれば、文化産業は、「ラジオ、映画、雑誌等、諸々の娯楽を提供する一連の配給会社から成るシステム」である。当時と今とを比べてみると、ラジオ以上にテレビが普及し、また、技術革新等ゆえに提供される娯楽の内容がより精巧になる(映画作品におけるCGの活用等)など、外観上違いはあるが、その内実に即しアドルノの展開した理論的な論考(それは、『啓蒙の弁証法』の序文で言われるとおり、断片的であり、緻密な読解を要する難解な文章なのだが)は、今においても古びておらず、踏まえるべき基本的論考であると筆者は考える。
 以下、本論考の主題である「娯楽の閉鎖性」に関する箇所に限定し、彼の論を検討してみる。

(I)「レジャーの中では、人はプロダクションの提供する統一的規格に右にならえせざるをえない。カントの図式論(シェマティズム)においては、感覚的な雑多さをあらかじめ基本的な概念に関係づける働きは、まだ主体に期待されていたのだが、今やその働きは産業の手によって主体から取り上げられてしまう。顧客への第一のサービスとして図式主義(シェマティズム)を促進するのは、今や産業である。カントによれば、人の心の裡にはある秘められたメカニズムが働いており、それが、純粋理性の体系の中へうまく組み込まれるように直接的なデータを前もって整備することになっている。しかしこの秘密は、今日ではもはや謎めかした蔽いをかなぐり捨てている。たとえメカニズムの立案する企画が、データを提供する者、つまり文化産業によって押つけられ、またこのメカニズム自体が、あらゆる合理化にもかかわらず非合理的な社会の重力によって押しつけられたものだとしても、この宿命的な傾向は、それが会社のエージェントの手を経て現実に移されるに当たっては、その会社自身が抜け目なく狙った意図的性格のものへと転換させられているのである。消費者にとっては、それ自身プロダクションの図式主義(シェマティズム)のうちに先取りされていないようなものは何一つ存在せず、それをさらに分類することなどできはしない。」(注5)

 文化産業は、娯楽を生産し、消費者に提供するのだが、この享受の場では、生産者側と消費者側との間の隔てが、次のような具合に曖昧とされることに留意すべきである。

文化産業は、消費者に、娯楽を商品として提供するだけでなく、広告の活用等を介して、それについての嗜好(娯楽商品との直接的な接触が、受け手において生じさせる雑多な感覚的刺激を整序する心的メカニズム。当の刺激を拒むか否か、決めるものともなるだろう。)をも、提供する。消費者において、文化産業サイドが意図したとおりの嗜好が、画一的に、押しつけられるようにして形成される。こうして形成される嗜好に適合する娯楽的商品を大量に生産し提供することで、売上確保の確実性は、高まることになる。すなわちこの享受の場においては、文化産業が「消費者の注文に応じてがらくたを生産する前にまず消費者たちを生み出し」、「こうして生み出された消費者たちの渇望しているのが、映画であり、ラジオであり、娯楽雑誌」(注6)であり、これら娯楽的渇望を充足すべく、文化産業が、まさしくそれに応じるであろう当の映画やラジオや娯楽雑誌を、商品として生産し提供するといった具合に、文化産業と消費者とが、曖昧に隔てなく、関わりあう。そしてこの関わりにおいては、文化産業が支配的優位となるのである。つまり、消費者側が生産者側に組み込まれ、嗜好と渇望とが、そこにおいて形成されるといった具合に。
 文化産業による、消費者の嗜好及び渇望の、先取的形成の効果の一つが、売上高の増加である。これは、産業にとっての、営利上のメリットとしての効果であるが、アドルノが特に緻密に論じるのは、むしろ、消費者に及ぶ影響および効果である。
 消費者は、嗜好形成の自発性を発揮するにあたり、産業側に抑圧されるのであるが、のみならず、想像力や思考力を働かせるに際してもまた自発性は抑圧されるとアドルノは言う。

「今日では文化消費者たちの想像力や自発性の萎縮の原因を、ことさら心理的メカニズムの故にする必要はない。文化産業の製品、その典型はトーキーだが、その製品そのものが備えている客観的性質によって、想像力や自発性などの能力は麻痺させられる。制作された作品を充分に理解するためには、たしかに機敏さや観察力や熟練が必要だろう。しかし見る者が流れ去る一こま一こまを見過すまいと眼をこらしても、見る者の思考の能動性を端的に禁止するように、製品そのものが構想されているのである。見る者の側の緊張は、もちろん身に染みついたものなので、個々の場合に発揮される必要はさらさらなく、それでいて想像力は抑圧されることになる。」(注7)

 ここで言われる「機敏さ、観察力、熟練」あるいは「身に染みついた緊張」とは、娯楽商品、例えば娯楽映画を幾度となく数多く見続け受容する過程において、まさにその娯楽の論理に馴れることで得られる、娯楽に対する自動的な反応方式のことである。すなわち、たとえば初めて目にする映画が、外観上、今までに見たものと比べどれだけ真新しかろうと、「彼が当然知っているはずの他のあらゆる映画や文化製品から類推すれば、求められている注意力は自動的に随伴するほどに、すでに身についたものになっている」(注8)状態のことを言う。そしてこの自動性は、思考や想像の自発性が抑圧されるのと引き換えに得られるものであることは、引用文より明らかである。
  娯楽的論理に適応し、それへの自動的な反応方式を獲得する機会は、ただ映画館のみならず、ラジオやテレビから巨大なテーマパークまで、娯楽商品の提供が常時行われているところならどこであれ偏在している。
 また、アドルノの言い方を踏まえて言うなら、自発性を喪失し自動性を獲得することは、以下の事態に至りかねない。「娯楽商品は、諸娯楽的文化施設の域をはるかに越えて、その享受者たちが想像や思考を働かせる余地を奪い」、さらには「娯楽商品は、自分に引き渡されている消費者を訓練して、娯楽の中の出来事と現実の出来事とを同一視するように仕向けるのである」 (注9)ということにもなりかねない。つまり、娯楽における論理と同様の筋道をたどって現実の出来事もまた生起するというものの見方(パースペクティブ)が、娯楽享受者において一般化する。のみならず、娯楽においては起こらない出来事(娯楽からあらかじめ排除された出来事)は、娯楽の外の現実においても起こり得ないというものの見方(パースペクティブ)も一般化しかねない。起こり得ないとされる出来事が、実際に起こったとしても、すでに、そういった出来事に対処するに欠かせぬ思考力や想像力が萎縮した者達には、いかんともし難く、身に染みついた娯楽的反応方式でもって対処せざるを得ない。
文化産業は、嗜好、思考あるいは想像力などの自発的形成を、消費者において抑圧し、かつ、彼等をそれに固有な反応方式でもって捕捉する。身に染みついたその方式は、彼等において与えられる娯楽の刺激をその都度、同一の反応でもって受容する。それが繰り返される度毎、刺激に対する馴れの度合は進行し、反応の自動性の度合もまた高まってゆく。
 そして自発性はさらに抑圧される。
 こうしてますます娯楽消費者は、文化産業の支配圏域内に取り込まれてゆき、そしてついには包摂せられる。閉鎖が、そこに成立する。

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