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(II)文化産業の強制に服した娯楽消費者は、そこで身につけた自動的反応方式でもって、娯楽と異質に生起するはずの現実の出来事に、応じるようになる。この場合、消費者は、娯楽的反応方式に包摂せられており、さらに、現実の出来事をもまた娯楽の側のものの見方(パースペクティブ)に引き入れて、そこにて対応しようとする。娯楽と異質であるはずのことが、娯楽の中(および、娯楽的反応方式)に取り込まれて処理されるのである。
 アドルノはまた、別の箇所で次のように言う。「娯楽とは、後期資本主義下における労働の延長である。娯楽とは、機械化された労働過程を回避しようと思う者が、そういう労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ」(注10) と。
 娯楽は一見したところ、労働過程を回避して、そこから離れたところで得られる、つかの間の休憩機会であるかのように見える。すなわち、後に再び労働過程に組み込まれる以前の休憩機会であり、その限りでは労働のための鋭気を養う、準備の機会であるかのようにみえる。ところが、上記の引用箇所によると、労働過程の中断は、休憩機会ではなくて、「労働の延長」として与えられる。それは、労働過程と異質な、実質的な休憩機会ではないと、認識されるのである。あるいはその少し後では、「工場や事務所での労働過程を回避することができるのは、ひまな時にもその過程に同化することによってだけである」(注11)と述べられる。労働過程の中断である、ひまな合間を充足するのは娯楽である。享受者に、労働過程においてと同様、機械的な反応でもって受容し、それに応じて振舞うことを強制しつつ、自らを与える娯楽である。すなわち、中断された労働過程は、労働過程と異質ではなく同質的な(その延長である)、娯楽享受の過程でもって充足される。そしてその享受を通じて人は、娯楽に固有な機械的反応方式に馴れるのである。
 娯楽消費者には、労働に従事していない合間にも休息は与えられず、娯楽享受の機会が与えられる。そのことにより、機械的な労働過程の自動的な運行にさらに従順な者となるための訓練が施されるとも言えるだろう。労働過程外であるはずの中断において、文化産業の生産物(これ自体、機械的な労働過程の産物である)が、消費者の思考力、想像力を抑圧し、自動的反応に適応させ、そうして労働過程内においてさらに従順に機械的に、適応の度合を高めて行くといった具合に、訓練が施されるのである。となると、娯楽が渇望されるのは、労働過程と己との間の不適合、そしてそこにて生じる軋轢の度合を弱め、労働過程により従順に適合してゆくための予防措置を欲求するからであると考えることも可能である。労働過程と自身との間の距離を無くすことが、そこにて志向されるのである。
 つまり、娯楽が息抜きに見えるのは、外観上のことに過ぎない。娯楽はそれの享受者をして、機械的な労働過程に適応させるための、訓練である。そして人は、労働過程、ないしはそれの内実である機械的‐自動的過程に一致させられ閉じ込められる。

(III)娯楽が、実際提供される場である娯楽施設につき、アドルノは次のように言う。「人びとは退屈から逃げ出そうとする。しかし退屈なるものもそれ自体こうした逃走過程の反映にすぎないのであり、人びとはつとにその過程に巻き込まれているのである。巨大な娯楽設備の経営が成り立ち、誰ひとりそれで楽しい思いをするわけでもないのに、どんどんふくれ上がっていくのもひとえにそのためだ。娯楽は仲間と一緒にいたいという衝動のはけ口になっている」(注12)と。
 人は退屈と感じ、だからそこから逃げ出そうとする。けれど、この、退屈を感じる人は、自発的にそう感じるのではない。退屈から逃走し、充足された状態を求めさせる過程(退屈からの逃走を強要する過程)に既に巻き込まれているから、退屈であると感じるのである。あるいは、この、退屈を逃れ充足を求めるよう強いる過程に巻き込まれることによって、退屈であると感じるよう強いられると言い換えることも出来る。人は、自身が巻き込まれている同一過程(娯楽の生産‐享受の過程)の内部において退屈と感じるよう強いられ、かつ、それを逃れて充足を求めるよう強いられるのである。
 そして、この過程を完成させるのが、文化産業の提供する巨大な娯楽施設である。強いられた退屈感を充足させるのは、そこにて得られる娯楽商品である。つまり、退屈からの逃走先は娯楽であり、その限りにおいては、上記の過程そのもの内部における逃走であり、その外部への逃走ではない。
 また、上記の引用より明らかだが、娯楽施設は、ただ一人のための場であるだけではなく、人を複数集合させる集客のための施設でもある。娯楽消費者が、お互い、己と同様に退屈を逃れ充足を求めようと集まった仲間と一緒になることを可能とする場でもある。
 
 そこに形成される娯楽消費者の集まりについては、次のように認識される。すなわち、「文化産業は、類的本質としての人間を意地悪い形で実現した。どの人をとって見ても、すべて任意の誰かと取り換えることのできるもの、つまり代替可能な類例性の一つでしかない」(注13)と。提供される娯楽の内容に応じた自動的な反応方式が、一様に身に染みついており、かつ、各人の思考や想像力が麻痺させられているのであってみれば、当然のごとく、そこに集まる人びとは、反応方式を共有し、その限りで、同質的な集団を形成する。その集合においては、その方式を逸脱する自発性は、そもそもあり得ぬものとされ、抑圧されるだろう。同質的集合は、自発性の発揮に対して抑圧的であり、つまりは閉鎖的である。
 
 さらにまた、アドルノの認識は、この集団の構成員相互間の関係をも捉える。すなわち、「日曜日なり旅行中なりに、値段のランクに応じて料理も部屋もそっくりな旅館で出会った客同士は、自分たちが、ますます疎隔されていきながら、ますます似たもの同士になったことに気づく」(注14)というように。これは、『啓蒙の弁証法』の終わりに付された手記と草稿のうち、「コミュニケーションによる疎隔」と題された断章からの引用である。
 ここでは、文化産業の一部門である娯楽的旅行産業(産業側が、情報誌等を介し消費者の欲求を喚起し、かつその欲求に適うレジャーのための施設を建設する。欲求も、その充足のための施設もともども、旅行産業により形成される。)に即し、娯楽を一律に受容している者同士、お互い類似していても、それらの者の間での遣り取りは、疎隔において成り立つと言われている。もちろん、映画館やテーマパーク等、文化産業の他の部門についてもあてはまる事態の例の一つとして扱われていると考えることもできるだろう。考察すべきは、そこに集まる人びとが、《似たもの同士になったのに》《お互いますます疎隔されてゆく》と認識される事態である。
 これは、どういうことだろうか。ここまでの考察を踏まえてみるなら、娯楽によって扶植された自動的な反応方式でもって、人びともまた関わり合う状態、すなわち、思考と想像の自発性は抑圧されており、だからその代用に彼等において共有されている反応方式を交流の媒体として活用するより仕方ないという状態が、疎隔と把握されると考えることができるのではなかろうか。思考の自発性を奪われている限りにおいては、両者の間に取りかわされる遣り取りは、自動的な機械的な反応に規定されざるを得ない。つまり、言葉など、一応お互い交わされて遣り取りがあっても、それは共有された自動的反応方式を媒介としてのことにすぎない。反応方式を一律に同じくし、その限りでは類似している。けれど、それを介した交流が為されるのは、似た者同士であるにも関わらず(ないしは、そうであるからこそ)疎隔された状態においてである。となると、退屈を逃れるために娯楽施設(ないしはそれと同様の場所)へと赴きそこに集まった仲間たちは、疎隔された状態において似た者同士の集まりを成すということになる。

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