 |
|
 |
以上、アドルノの見解につき、筆者の、これまでの考察からして関わりがありかつ示唆的であると判断した部分を中心に、検討してみた。その検討は主として、日常生活者に対する文化産業の効果(思考・想像が萎縮して反応方式が自動的・画一的となる、自動化される労働過程へと日常生活が吸収される、さらにこれらが自己の喪失状態を共有事項とする画一的な人々の群(「無定形の群集」(注15))を準備する)についてのものである。アドルノの冷徹な認識の態度は、今においてもさらに深めて習熟すべき基本的なものであると、筆者は考えるのである。そして、この認識に発する議論を、さらに推し進め、展開する必要があるだろう。では一体、どういう方向へと、展開すべきなのだろうか。
たとえばベンヤミンの論考「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」(1939年成立)に、次のような見解がある。「前世紀(19世紀のこと:括弧内は筆者)の末以来哲学においては、「真の」経験を獲得しようとする一連の試みがなされた。この「真の」経験は、文明化した大衆(マッセ)の画一的で不自然な生活に沈殿する経験と対立するものとされる。これらの勢いこんだ試みは普通一括して「生の哲学」という概念で呼ばれている。当然ながら、それらは社会における人間の生活から出発することをしなかった。それらが引き合いに出したのは文芸であり、あるいはむしろ自然であり、そして最後にとりわけ神話時代であった」(注16)。ここで言われる「真の」経験からすると、社会的な人間生活に沈殿する経験は対立関係にあり、その限りにおいては相容れず、つまりは「偽りの」経験である。
この見解を踏まえて言うなら、アドルノは、社会における人間の日常的な実生活が文明化の進展にともない画一化して不自然となる、その条件につき、文化産業の論理に即して考察しているということになる。確かにこうして把握される実生活、およびそこに沈殿している経験のあり様について、アドルノの物言いは否定的である。だからといって、こういった「真ならざる」不自然とされる経験と無関係に、具体的に生活を営むことは可能なのだろうか。
ベンヤミンの言うとおり、「真の」経験を獲得しようと試みる者は、このような、不自然とされる日常生活を離れたところに活路を見いだそうとする。けれど、それらは文芸(古典)であり、自然(不自然な生活を逃れたところにあるとされる自然)あるいは神話時代(そもそも現時点では具体的に経験することなど不可能)に向かう。
ここで言われる「真の」経験の「真」は、坂口安吾が「真の」生活と言う意味での「真」と異なる(坂口の「日本文化私観」については、第一回にて検討した)。すなわち坂口は、「法隆寺だの平等院は、古代とか歴史とかいうものを念頭に入れ、一応、何か納得しなければならぬような美しさである。直接心に突当り、はらわたに食込んでくるものではない。どこかしら物足りなさを補わなければ、納得することが出来ないのである。小菅刑務所とドライアイスの工場は、もっと直接突当り、補う何物もなく、僕の心をすぐ郷愁へと導いて行く力があった」(注17) と述べる。つまりは古代や歴史といった、具体的な経験からは導き難く古典の文芸作品からのみ得られる類の知識を介して間接的に感得可能な美と、今ある事物が直接的に突当るところにおいて得られて感受される美とを区別し、それら両者の違いはどこにあるのだろうかと考えるのである。そして後者の美の基には、「真に、健康に営まれる生活がある」と、彼は言うのであった。「見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ」(注18)と。
筆者なりに解釈するなら、ここでの「真に」乃至「真実に」とは、「社会における人間の生活」が、実際に、具体的にかつ「健康に」(この言葉の意味については、扱いに注意を要する)営まれていることを言う。それは、文芸や神話への逃避において追求すべしとされる、経験の性質のことではない。直に我々を規定する日常生活の、健康な具体性のことである。そして坂口は、真に(実際に、具体的に)営まれている生活に即したところに、美の条件があるとしているのである。美が創造されるのもそこにおいてである。けれども、それが実際に具体的に営まれていても、「必要」に適い、かつ「健康に」営まれているとは限らない。たとえ、実生活は営まれていても、それが不必要なものばかりから成り、さらには不健康に営まれているとしたらどうだろう。アドルノは言う。「ラジオや映画の大部分がなかったとしても、おそらく消費者がたいして困ることはまずないのではあるまいか。…そういう文化産業の施設にしても、たんにあるからといって必ずしも利用しなくてもいいことになるや否や、利用したいという強い衝動もまったく湧いてこなくなる。…膨れ上がったさまざまの享楽施設は、現行の価値尺度に照らしてさえ、人間の生活を人間の名に値しないものにしている。与えられた技術的可能性を「汲み尽す」という思想、美的な大量消費のために生産能力をフルに活用するという思想は、飢餓の解消が求められている所で、生産能力の活用を拒否するような経済体制と密接に結びついているのだ」(注19)と。彼が認識する実生活は、無くても困らぬ不要な施設に満たされており、かつ、飢餓があるにもかかわらずそれとは別の、無くても構わぬ目的の達成に、生産能力が活用され、必要に適わぬものに満たされているという意味において健康とは言えぬ状態が、増進してゆく生活である。こういった生活については、実際に、具体的に営まれている限りにおいては、偽りと断じる見解(「真の」経験という尺度からして偽りとすること)は維持し難い。だからといってその生活が必要なものに満たされており、かつ健康であるという見解は、上述のアドルノの考えからすると批判的態度の欠如を示すだけのものである。営まれているという限りにおいては、生活はそこにある。けれど、それは必ずしも健全であるとは言えない。
古典文芸や神話世界に、実生活ではけっして得られぬ「真の」経験を求め、そしてそこに美の可能性、ないしは文化の創建の可能性を見出そうとする、いわばロマン主義的な試みも、一つの方向である。しかしながら、それは、ここまで論じてきたことからも明らかかもしれぬが、筆者の選ぶ方向とは異なる。筆者は一貫して、日常生活の具体性に立脚することが必要と考え、論を進めて来たつもりである。けれど、文化産業による実生活の娯楽化が実際に進行しつつあるというアドルノの見解は、今においても拒み難いのではなかろうかとも考えるのである。とするなら、提起すべき課題とは、《日常の具体性に立脚しつつ、それでいてたとえば文化産業に発する生活の娯楽化画一化の趨勢に、どう対抗するのか。つまりは、日常生活からは離れず、それでいて娯楽に吸収されることなく、娯楽型ならざる創造型の文化創建の試みは、いかにして可能か》ということになる。 |
|
|
|