 |
|
 |
(2)芸術‐遊戯について(その、実生活との離即について)
前々回と前回、考察の対象とした二つの事例につき、筆者は言うのだった。それらは周辺環境(居住地、娯楽施設、業務用事務所など)から隔離されており、当の活動からして関わりの薄い事柄に対し閉ざされている、と。これらは、直接取り巻く周辺環境に対し、物的に(赤レンガ倉庫の場合は道路や柵により)枠付けられ、区別されている。その枠付け‐区別の意味合いを強調すべく、隔離という言葉を用いたのである。これらが意味を持つのは、吸収され閉じ込められるという受動性においてではなく、枠を設けるという、能動性においてである。ここで言われる隔離の意味は、先に検討した娯楽の閉鎖の意味とは、異なる。この違いを明確にする必要がある。
(a)考察を行うにあたり示唆的なのが、ジンメルの見解である。かれは、『社会学の根本問題』(1917年)の第三章「社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)」において言う。芸術は、実生活から離れ独立した領域において成立する。と同時に、芸術は、実生活のリアリティに即す、それとの関わりにおいて生じる、と。
すなわち彼は、「空間的な大きさ、リズムや音響、意義や組織、それらを頼りにして有形無形のリアリティを構成するのも、最初は、確かに人間の実際の必要から生れたことであろう。けれども、これらの形式が自己目的になり、それ自身の力や権利によって活動するようになり、自分自身によって、つまりLeben(生活、生命)に巻き込まれずに、選択し創造するようになる瞬間——そこに芸術が生れる(強調は筆者)」(注20)と言う。つまりは、(事物、音、言葉等を素材とする)構成という営みが、実生活上の諸要求を充足するという目的に従属する手段であることをやめ、そこに巻き込まれている状態を脱し離れてそれとは別の領域に位置することが、芸術成立の前提であるということになる。芸術成立の領域と、実生活の領域と、二つの間には、《関わりにおける距て》および《距てにおける関わり》が、成立するということになる。
ジンメルは、このような芸術のあり方(そもそも生活の諸要求の充足を目的とする営みが、そこから離れた領域に位置するようになる)が、遊戯(Spiel)のあり方に極めて近いと述べる。狩猟や球技など、実生活の直接的な要求という観点からすれば余計な遊戯的活動の、実生活との関わり方に近いと述べるのである。「両者(芸術と遊戯:括弧内は筆者)の意味と本質とは、Lebenの目的やLebenの実質から生れた諸形式がそれらから身を解き放って、諸形式それ自ら独立した運動の目的になり実質になり、あのリアリティのうちから、この新しい方向に従い得るもの、諸形式の独自のLebenのうちに現われうるもののみを取り入れるという、この断乎たる転回のうちにある」(注21)と。
ここで言われる遊戯と、先に述べた娯楽とを、区別しておく必要がある。文化産業‐娯楽は、日常生活を律しつつある生産‐消費の機械的過程の産物であり、それを享受する者の行動方式に浸透し、一律に統率する。働くことと余暇活動とを同一の過程内部へと取り込むのである。そこでは娯楽の生活化と生活の娯楽化とが、一体となって進展する。それに対して芸術‐遊戯は、実生活から生じた活動が、その直接的な諸要求・諸拘束から離れたところに固有の領域を形成し、そこに位置するものである。
だからといって、遊戯が実生活から過度に離れてしまうと、それは空虚な活動と成りかねない。ジンメルは言う。「リアリティの模写と一切縁のない、極めて自由な、極めてファンタスティックな芸術と雖も、空虚な虚偽に終わらないためには、リアリティとの深く正しい関係から養分を得なければならない」(注22)と。実生活のリアリティとの間に距離を設けることは、関係を持たないことを意味しない。そことの関わりにおいて距離を設けることを意味するのである。即しつつ、離れる、つまりは関わりにおいて距離を設けることもまた、芸術(のための領域)の成立の条件ということになる。だからといって、ただ関わればよいということではなく、その「正しい」関係の持ち方、距離を含んだ関わりの適切さ次第であることに、留意すべきである。
となると、芸術文化のための(遊戯的)領域を成立させるためには、ただ実生活と距離を設けて独立させる、その条件を充たすだけでは充分でない。それが関わり立脚する、実生活そのものが、養分となるに適したものとなることも、充たすべき条件である。
本論の流れからすると、都市生活が関与の場である。第一回で筆者は、セネットの見解を踏まえ、《都市は、多様な人・事物の集積する刺激の場であり、芸術文化創造の場として適したものと成りうるポテンシャルを秘める》と述べ、その醸成の条件(その阻害の要因をも含めて)につき考察することが必要であると説いたのだった。
なお、ジンメルの、その論考「大都会と精神生活」(注23)(1903年)で展開される議論も、示唆的である。彼も、大量の事物と人とがコントラストを成しせめぎあい、新たに現われては消えて行く、刺激に充ちた大都市は、そこに居る人にとって、それら多様な人や事物のさなか、外界との距離のとり方に習熟し、区別する能力(違いに対する敏感さ)を高め、そして「料簡の狭さや偏った先入観に束縛されている小さな町の人間」の状態(地域的共同体内部に閉ざされている精神的態度)を脱し、精神的に洗練されて自由になることに習熟するのに適した場であると述べる。
けれど、そこはまた、こういったポテンシャルに相反する、画一化と相互無関心(相互疎隔)の同時的進展の場とも成りうる。上述のアドルノだけでなく、セネットもそう述べている。また、ジンメルも、その叙述において萌芽的に、そのように考えていたことをうかがわせる箇所がある(注24)。となると、たとえ芸術‐遊戯のための領域形成が試みられても、立脚すべき都市生活の場で、画一化、相互無関心、そして没刺激の傾向が一般化するとなると、その試みは不十分なものとなりかねない。
(b)娯楽ならざる遊戯について厳密に考察すること、それが展開する領域の成立条件について考えること、それが織り成す状況の、多様性、様々な接触、刺激等の条件につき、画一化、相互分離、没刺激といった対抗的な趨勢との違いを明確にしつつ吟味すること、これらが課題となる。さらには、遊戯と都市生活のコンテクストとの相互関係についても、考察する必要がある。遊戯は、生活に対し、離れすぎては空疎となり、あるいは離れた領域そのものの過度の閉鎖をもたらしかねない。また、生活に、即しすぎては文化産業の論理に盲目となり、そこに埋没し、浸潤され、吸収されることになりかねない。すなわち、遊戯であったはずの活動が、娯楽的な活動へと、転化することになりかねない。
遊戯については、ヨハネス・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938年)(注25)、およびそれをうけ、さらなる理論的展開を試みたロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(1958年)(注26)が示唆的である。
ジンメルも遊戯について、例えばその一例である社交(彼によれば、社交も、会話も、恋愛も、それぞれ現われ方は異なるが、遊戯的形式を持つ)に即し次のように言う。
社交の現場に参加する「個人々々にとっては、上方及び下方に「社交閾」があると言ってよい。彼らが会合を或る客観的な内容や目的という基礎の上に据える瞬間も、また、彼らの全く個人的なものや主観的なものが無遠慮に現われる瞬間も、社交はもう中心的及び構成的な原理でなくなり、精々のところ、形式だけの、表面を取り繕う原理になる」(注27)(本論に即すなら、社交閾は遊戯閾へと言い換えるべきであろう)と。つまりは、日常生活の領域に属する私的要求、あるいは世俗的要求に対し距離を設け、そういった遊戯以外とされる要求の浸入を防ぐこと、それらとの目的‐手段の関係に規定されることなく、それに固有の限定された領域内に隔てられることが、遊戯の成立条件であるとされる。
あるいは、そこに参加する者の「社交本能」(注28)(日常生活においては充足されない。なお、社交は遊戯の一環とされるのであり、その限りでは遊戯本能の一つとして社交本能があると言えるだろう。)を、相互に充たす場と成ることをも条件とする。すなわち遊戯としての社交の場に参加し、そこを構成する「各人は、自分自身が受取る社交的価値(喜び、気晴し、生き生きした気分)の最大量と一致するような価値の最大量を他人に与えるべきである」(注29)。このように、遊戯領域(社交の場、会話の場)の参加者相互間における授受の対等性(実質的に交わされる内容の質が対等であること。それは、内容が均質であること、つまりは共通の尺度である貨幣を介して交換可能であることを意味するのではない。相互交換的な遣り取りの慢性化を意味するのではない。共通の尺度からして均質だから対等、平均的だから対等、ということを意味するのではない。わかりやすい基準を共有しない、異質な内容を発する者の間での授受の現場における、そのお互いの満足度、触発の度合等からする対等性のことである。異質さにおける対等性。異質であるがゆえの対等性。)が確保されることもまた、遊戯の成立条件であるとされる。
ところで、そもそも娯楽的価値と遊戯的価値とを同列に扱うことはできるのか、すなわち、前者の、貨幣によって量的に表示可能でありそれゆえ容易に交換可能な価値と、後者の貨幣を介さず授受される価値と、同列に扱うことが出来るのか、異なるとしたら、どう異なるのか、截然と区別することはできるのか、こういったことについても考えるべきであろう。
ジンメルは、自身構想した形式社会学の説明のための一例として遊戯を取り上げている。それに対し、ホイジンガとカイヨワは、遊戯そのものを、文化形成の可能性を孕むものとの前提を踏まえ、考察対象としており、その条件についても、より詳細に検討されている。 |
|
|
|