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(c)これまで、カッチャーリの《閉鎖空間は、娯楽を内包する。そこでは娯楽が慢性化する》という発言をうけて、殊に娯楽にまつわる諸問題につき、アドルノの文化産業論を踏まえつつ、考察してきたのだった。そしてまた、娯楽と異なり対立的ですらある遊戯的活動の可能性について考えることの必要性を説いたのだった。前者が、嗜好、思考、想像力を画一的に萎縮させる効果を発揮するのに対し、後者は、そういった画一化の進行する日常生活の過程において、そこに即して離れることで、画一性を免れる営みの余剰を生じさせ得るのではなかろうか、さらにはそういった一般的な画一の傾向に対し何かしら影響を与えることになるのではなかろうかと筆者は考えるのである。
ロジェ・カイヨワは、遊戯について簡潔に定義する。そのまま引用する。
(一) 自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
(二) 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
(三) 未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
(四) 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動(賭博の掛け金など:筆者補足)をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
(五) 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規(日常を律する法:筆者補足)を停止し、一時的に新しい法(遊戯の法:筆者補足)を確立する。そしてこの法だけが通用する。
(六) 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること(注30)。
娯楽との違いは、殊に(四)に明瞭である。それは、非生産的であるとされる。財と認定され、貨幣を介し交換可能な諸事物を生産しないという意味で、非生産的であるとされる。そういった事物の生産、およびそれにより得られる利益を目的とし、手段として従属するのではなく、遊戯としての活動だけをまさに営まれるものとしてつくりだすことが、自己目的とされる。
また、遊戯の営まれている領域は隔離されている、その意味を、娯楽の閉鎖性と区別し考察する必要があるだろう。カッチャーリは、娯楽(施設)は閉鎖的であると言う。けれど、この閉鎖性は、外観上の、集客を目的とする開放性(開けていること)と相補的関係にあると筆者は考える、このようなことを先に述べたのだった。この、遊戯領域の隔離と、娯楽施設の閉鎖(外観の開放)との違いをはっきりさせる必要がある。
娯楽は、日常に向かって、開けている。娯楽的虚構と、日常生活と、両者の区別は曖昧となり、どっちつかずの混合体が形成される。この混合体の源が、娯楽施設である。
それに対して遊戯は、日常生活との対比においては二次的な、虚構とされる現実を、実際創る営みである。それは、日常生活から隔離され、「明確な空間と時間の範囲内に制限されている」のである。この、制限された範囲の内部に、遊戯の領域、二次的現実の領域が成立する。
けれど、この制限‐隔離の領域が、具体的に生じるのは、どのようにしてであるか。
[考察を展開するにあたってふまえるべきは、たとえばアンリ・ルフェーブルがLa
production
de
l'espace(初版は1972年)で示した、次のような見解である。
彼は言う。「何かを作り出そう(注31)という、つまりは創造しようという欲望(d_sir)が成就するのは、空間において、空間を生産する(produire)ところにおいてである(強調はルフェーブル)」(注32)と。そしてここで言われる空間は、等質化の傾向に抗う空間である。彼は、その例として、「周縁、スラム街、そして禁じられた遊戯の空間」(注33)と、遊戯が営まれる空間をも挙げている。
遊戯は、空間において(制限されて隔離され)営まれるだけではない。そのための空間をも生産する。おそらく、隔離されるといった受動的な言い方よりは、隔離してゆく、隔離の状況を生産するといった能動的な言い方のほうが適切であるだろう。また、この文を構成する二つの概念、欲望と生産とに、注意する必要があるだろう。彼の論において、欲望は、需要(besoin)と区別され、生産は、既存のシステム(この場合は、娯楽施設の建設の論理を基とするシステム)から帰納されそこへと還元されるモデルにのっとり建設することと区別される。これら区別につき考察することは、後々論を展開するための手掛かりとなるだろう。(さらなる考察は別の機会に。)] |
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