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『都市文化研究報告 その5』
—最終回—
篠原雅武
(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程二回生)
 今回は五回目、つまりは最終回である。けれど、一時の中断を経て後、いずれ再開の予定となった。それゆえ何かしら結論を出すことはせず、今回も今までと同様、進行途上の考察記録を書き留めるといった具合に淡々と進める。
 前回、アンリ・ルフェーブルの「何かを作り出そうという、つまりは創造しようという欲望(desir)が成就するのは、空間において、空間を生産する(produire)ところにおいてである(強調はルフェーブル)」という見解につき考察することが必要であると述べ、論を終えたのだった。
 芸術文化の形成(それが娯楽的であれ遊戯的であれ)の活動には、展開に応じ、それを容れ定着させる空間が欠かせない。娯楽的活動は、外観上開けた、実質閉じた空間を要する。遊戯的活動は、日常から隔離された空間を要すると、前回述べたのだった。

 今回は、具体的事例をさらに幾つか紹介し、そして、今まで述べ切れなかったことを補足しておきたい。これはまた、今後、さらに考察を展開するための準備作業でもある。

(1) 転用される空間

 ルフェーブルは言う。「等質的な空間を、自ら使用するために転用する(detourner)様々な集団の潜在的なエネルギーのおかげで、空間は、演劇に成りドラマに成る」(注1)と。こういった転用の例につき、考えてみる。
たとえば大阪市内には、フェスティバルゲートという、娯楽のための複合施設がある。ここは元来、娯楽的活動のみを許容する、等質的な施設であった。けれども現在、ここには、ダンス、映像、音楽といった芸術文化活動を行うNPO法人のための拠点が、それぞれ【Art Theater dB】、【remo】、【Bridge】という名称のもと、次第に形成されつつある。飲食店やブティックなど、テナントが撤退して後、空きスペースであったところを、自身の活動を行い展開させるための空間へと転用した一例であると言えよう。なお、この転用‐拠点形成は、第二回にて詳述した赤レンガ倉庫と同様、『芸術文化アクションプラン』を基本の理念とする「新世界アーツパーク事業」の部分を成す(この事業については、始まって間もないので詳述はしない)。 
第二回と第三回であつかったCASもまた、オフィス街に位置する一事務所内のオフィススペースという等質的な空間を、ギャラリースペースへと転用し、その活動を展開している。
 ニューヨーク市内に位置するPS1も、転用されたアートスペースである。もともと小学校としての役割を果たしていた建物が、芸術活動が展開されるに応じ、アートスペースへと転用された。PS1につき川俣正は言う。「今ではこのような場所での展覧会は普通であるが、七〇年代後半に都市の中で見捨てられた廃屋を利用し、そこをアート・スペースとして再活用していくという発想は新鮮であった。…作家たちは、この廃校の中で最低限建物の基本構造を破壊しなければ、どんなことでも可能だった。それゆえギャラリーや美術館などではできない自由さを、ここで十二分に発揮した。…壁を剥がしたり、校舎の壁に直接ペインティングをしたり、屋根裏部屋や地下室、屋上など至るところに作品が設置された。いわば、このようなところでも作品が設置できるのかという、場所の可能性を各アーティストが存分に引き出し、それがそのまま作品の可能性でもあった」(注2)と。
小学校が、芸術のために転用されたと言うよりは、芸術が、活動として展開するにつれ、建物もまた、それに応じて次第に転用されてゆくといった具合に、漸次的に転用されると言うほうが、適切であろう。こういった転用の例は、現在大阪市内においても、数多く見出すことが可能である。代表的なものを幾つか紹介する。

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