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<花形能舞台>の人びと〜味方玄の場合〜

<花形能舞台>の『邯鄲(かんたん)』は10年ぶり2度目ですね

味方「はい」

『邯鄲』をお願いしますって依頼された時どう思わはりました?

味方「嬉しかったです。演りたかったから」

どんな『邯鄲』になりますかねえ

味方「どの解説書を見ても、たいがい見どころは一畳台で舞う〔楽(がく)〕にあるって書いてあるけど、僕は、例えば、‘盧生(ろせい)は夢醒めて’と、盧生が、ぼや〜っと現実へだんだん戻ってくるのと、実際に舞台を見ている人が一緒で、人生が重なって、あそこにあったものも消えて行って、そこにあったものも消えて行って、って徐々に夢から戻ってきて。で、それは、ちゃんと考えられてるわけではなくて、頭の中で徐々に整理されて行くんやと思う。‘五十年の歓楽も、王位なればこれまでなり、げに何事も一炊の夢’で、ハッ!とするまでの過程に、作者が一番言いたかった『邯鄲』のテーマがあると、僕は思う」

はい

味方「そこは、見てる人は、〔楽〕のあとやから、もう終わった〜って思ってるやろ?そうではないほうが絶対いいと思うし、僕が一番演りたいのは、そこが充実してる『邯鄲』。シテ(=盧生)は放心してて、そこは地謡にグッとしっかり謡うていただいて、‘げに何事も一炊の夢’で、ああ!…というのが『邯鄲』の醍醐味やと思う。でも、そこですべてを悟ってしまうんやなしに、青年盧生が、その時にぶち当たっていた壁みたいなもの、‘こんなちゃっちゃいことに俺は悩んでたのか…’と、若いなりに得心する、と。そういうのやと思う。その過程がうまくできたらええな、と。」

『邯鄲』はほんとに見どころが多いですからねえ。でも、それも全部、そこが言いたいが為の伏線だと。

味方「それと、宿の女主の勧めで枕をって解説書にはよく書いてあるけど、あれは、女主が、どこからどこへ行くのかと訊いたら、盧生が旅の動機を語る、そしたら、女主が‘ああ、それやったら、こんな枕を貰ったので、いっぺん寝てみはったらどうですか’って言う。‘その間に粟飯炊いときまっさ’って(笑)。それは戯曲がうまいこと出来てると思う。‘宿帳、付けんなんし’っていう感じで素性を尋ねたら、盧生が単に名乗るだけではなしに、こうこうこういうわけでって言うから、枕を出してくるんであって、泊まった人誰にでも枕を勧めてるわけやないねんなあ」

女主っていうのにも意味があると思うんですよね。おばちゃんって、若い男の子にあれこれ尋ねたくなるもんやねん。「あんた、なんで一人旅してんの?悩みあるんちゃうの?」とか(笑)

味方「そやねん。あの役、典拠になってる『枕中記(とうちゅうき)』という中国の小説では男の人の設定やねん」

なんで変えたんでしょうね

味方「『邯鄲』の作者が変えたんやろね。うまいと思う。そこが凄い」

確かにうまい。まあ、私が言うようなことで変えたんではないと思うけど(笑)

味方「そら、舞台上の彩りやね。男同士ではどうもねえ。それと、室町時代の好みが反映されてるから、ちっちゃい稚児が出てきて、盧生の青年としての綺麗さと、そこに、やっぱり女性の役があったほうがいい」

そうですね

味方「あとね、魁偉襤褸(かいいらんる=立派な容貌にボロを纏っている)っていう言葉を漢文で習た時、ああ、『邯鄲』やなあって思た。もちろん、能舞台ではほんまにボロではしないけど、そういうイメージ」

最近、<邯鄲男(かんたんおとこ)>の面を手に入れられたとか。とっても男前の面だそうですけど(笑)

味方「はい、男前です(笑)。今度はそれを使おうと思てます」



 舞台の話をしだしたら止まらなくなる。
 彼が指導している同志社女子大学の能楽部の学生たちの間では、「先生って、お能の話をしたはる時、子供みたいでかわいい」なぁんて言われているらしい。
 ちなみに、私が<花形能舞台>に寄せるメッセージの終わりのほうで書いた、成田達志(なりた・たつし)が20年ほど前にその姿に感動した少年というのは、実は<味方玄>のことである。

 彼が独立披露で『一人石橋』を演じた当時、そのことを能楽専門誌は、“事件である”と表現した。
 『一人石橋』という演目があるのではなく、これは、『石橋』を一人で演じることを重く大切に扱うがために習慣的に呼んでいる別称である。
 めったに演じさせてもらえるものではなかったし、「弟子家の独立披露で『一人石橋』をしたのは、いまだかつて見たことがない」というようなことをその筆者は記していた。
 それほど、<味方玄>の『一人石橋』は、実力と努力を認められたものとしての価値があったのである。
 『道成寺』の初演の時の隙(すき)のなさも憎そいほどで、「危険だ」と書かれてしまったのもむべなるかな、「披キの舞台でこんなに…」と危惧してしまうくらい技術的な完成度はあまりにも高かった。
 持っている才能が大きければ大きいほど、それに見合う努力をしないと、人は“いびつ”になってしまう。
 しかし、彼はものすごい努力を積み重ねてきた人だった。
 「どうってことないもんねー」みたいな涼しい顔をして、なんでも器用にこなしてしまうように見えるけれど…。
 修業時代にどんな稽古をしていたのか具体的に話したのは、これが初めてであろうし、おそらく、これから先、取り立てて表に出すこともないだろう。
 もちろん、御母堂のことも…。
 それを無理やり聞き出してここに書いた。
 まあ、いい意味で“ええかっこしい”であり、“負けず嫌い”である。
 役者たるもの、こうでなくちゃ、ねえ。

 味方兄弟の小さい頃を綴った御母堂の文章は、『レトリック京都』というエッセイ誌の2001年7月号に掲載されている。
 それを読んだ時、人前にもかかわらず落涙してしまった。
 お母さんの目には、橋掛リを歩く青年味方玄の姿に、「桧舞台で演ずることのみを希求していた」幼い魂が、残像の如く重なって見えるのだという。
 穏やかで温かい母の視線の先にある…能の家の子ではない彼が、子どもの頃からの夢を、才能と努力によって一つずつ実現させてきた、その、一途に「能に懸けた情熱」を想うと、目頭が熱くなってくる。
 それでも、何気なくやってみせてくれるのが、<味方玄>である。

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