小さい頃のことを少し…。お稽古はいつから始められたんですか?
浦田「3歳。なんにも覚えてへんけどね(笑)。僕、“あかんたれ”やったから(笑)、舞台の上でよう泣いててん」
(笑)お父さん(浦田保利/うらたやすとし/能楽シテ方観世流)、たいへんだ。
浦田「うん。困ったやろね」
舞台に出るのが嫌やったとか?
浦田「いや、出るのは嫌ではなかったし、泣いたからって不思議と嫌いにはならへんかった。そこんとこ、父がうまいこと育ててくれたんやな」
お稽古するから学校の友達と遊べなくて悲しかった、ということはないんですか?
浦田「ないなあ。うちは稽古すんの夜やったから。まあ当然、申合せや本番になると、学校休んだりせなあかんかったけど、それだけやから。親戚や周りに同世代の子が多かったから、自然にやってたし」
なるほど。嫌いになる理由があんまりなかったんですね。
浦田「うん。上手に持っていって(=誘導して)くれた。父の雰囲気ってわからへん?」
(笑)なんとなくわかります。明る〜く、朗らか〜で、おおらか〜な感じ(笑)。よく、子方(こかた)をする時って、おもちゃ買うてもうたり、ご褒美が嬉しくてっていうの聞きますけど。
浦田「それが僕、そんな記憶、あんまりないねん(笑)」
(笑)いつごろから憶えてはります?浦田家のご長男やから、子方は随分なさったでしょう?
浦田「そうやね、梅若六郎先生や、林喜右衛門先生の子方もさせてもうたよ。どちらも御先代の」
うわ、どちらも御先代!
浦田「うん。そういうのは憶えてるねん。なんか怖い感じ。怖いねんけど、舞台に出るのは嫌じゃなかった」
子供心にもなんかすごいっていうのがあったんでしょうかね。泣いちゃうのにね(笑)。あっ!それって、めちゃくちゃ感受性が強かったん違いますか?
浦田「さあ、どうやろ(笑)。とにかく“あかんたれ”やってん。六郎先生の『安宅(あたか)』はね、ほんまは豊ちゃん(=杉浦豊彦/すぎうら・とよひこ/能楽シテ方観世流/1962生)やったんやけど、怪我してしもて。それで急遽、僕がすることになって。六郎先生も喜右衛門先生も、子方さしてもうたんは、後にも先にも1回きり。喜右衛門先生は『邯鄲(かんたん)』やった」
お二方とも、最晩年のお舞台だったわけで、貴重な経験ですよねえ。声変わりの時期とかは?なにか他のことなさいましたか?
浦田「そうやね、舞台にもあんまり出られへんわけやから、その頃、ちょっとだけ他のことしてみたくなったかなあ」
学校のクラブは何を?
浦田「ほんまは野球がしたかったんやけど、危ないからあかんて言われて、で、全然違うけど卓球部(笑)」
浦田家の御曹司やから、『烏帽子折(えぼしおり)』とかもなさってますよね。
浦田「子方の卒業曲って言われる『烏帽子(えぼしおり)』の義経を演らしてもうて、あとは<千歳(せんざい)>も演らしてもうたし、東京に行くまでに、披き(ひらき)のもん言うたら、『乱(みだれ)』、『石橋(しゃっきょう)』の赤(=子獅子)までさしてもうてるよ」
観世宗家の内弟子に入るために東京にいらしたわけですけど、何歳の時ですか?
浦田「大学卒業してすぐに。22歳の時」
婚約者(現夫人)を京都に残してですよねえ。何年間あちらにいらしたんですか?
浦田「6年間。御先代の時に内弟子に入らせていただいたんやけど、ちょうど卒業っていう時に、急逝されたから、すぐに帰るわけにはいかないと思って」
本当に急でしたものね。
浦田「そんなんで、ちょっと長くなってしもた」
奥様、6年もよく辛抱しはりましたよねえ。今日び、普通の遠距離恋愛でも6年もたないですよ。東京にいらっしゃるまでに、何年付き合うてはったんですか?
浦田「2年かな。二十歳の時に出会うてるから」
げええええっ!離れてる期間のほうが3倍もあるやないですかっ!
浦田「ほんま、よう待っててくれたよね(笑)」
6年間で楽しかった思い出はありますか?
浦田「ないなあ」
な、ないんですか?!
浦田「“楽しかったこと”って聞かれたらね(笑)。そら、たまぁに息抜きはするし、その最中は楽しいけど、そんなん、息抜きせないかん状況自体が楽しくないわけやから」
あ、そうか…そらそうですよね。んじゃ、特にしんどかったことは?
浦田「うーん…。今、あの状態になれって言われても、精神的にも体力的にも絶対、無理やと思う。若かったから出来たんやろね」
具体的には、たとえば…
浦田「まず、言葉があかんねん」
関西弁がってことですか?
浦田「うん。僕ら普段なにげなく使てる言葉が通じひん。先輩から、‘こちらではそんな言い方はしない’って言われて」
はぁ…、「どういう意味?」って訊かれるんじゃなくて、「そんな言い方はしない(注・東京アクセントで)」ですか…。有無を言わせない感じ。そんなん言われたら使えなくなる。
浦田「そう。しゃべることもできない。もう、全部否定される。稽古で地謡の端っこに座らしてもうても、謡い方が違うから、‘邪魔になる’って言われるし」
つらいです…。
浦田「僕らかて、一応、一通りのことはこっち(京都)で身につけてると思てるやん。若かったから、ある程度の自信もあったし。それを一切、否定されるねん」
何から何までですか?
浦田「そう。謡い方から、<カマエ>から、もう何から何まで。ちょっとしたことも全部あかんねん。そら自信もなくなるし、怖かった…。とにかく、最初の一年間は、もう毎日やることを覚えるだけでもたいへんやからね。一年やってみたら、あとはその繰り返しやからって先輩にも言われてたし。こっちにいたときには自由にさせてもらってたのが、いきなり、ずっと緊張してないかん状態になったわけやから」
そんな中で、よかったなぁと思うことはありましたか
浦田「まず、親の有難みやね。これは、よそへ出てみんと、ほんまにはわからへんかった。つくづく、親って有難いなあって、両親に感謝したよ」
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