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梅川忠兵衛 (右は山村流家元・山村若)
で、何故、歌舞伎の世界へ?

就職して結婚もしたんですよ。一回目の(笑)。相手の人は可愛い人でね。僕が26歳。相手は18歳。京都の岡崎に家買ってもらって(笑)、そうして会社に通ってた。ある時、朝の通勤電車に乗ってたら、皆しんどそうな顔してはんねん。窓に映った自分の顔を見たら自分もしんどそうやねん。そのまま家へ引き返して、1カ月位引きこもりやりました。「僕は演劇したいねん」言うてね。
その時は役者になることは諦めてたけど、それでも自分には芝居しかない、演劇に携わることがしたい、今までは自分が舞台に出ることにこだわり過ぎた・・・と思ってね。
嫁は「どないすんのん」って騒ぐし、会社の人は訪ねて来るし大騒ぎでしたけど、暇だから徳三郎さんを訪ねては、南座の楽屋に遊びに行ってました。

先生、楽屋で可愛がられましたでしょ。お写真を拝見して、凄い美少年でびっくりしました。徳三郎さんの若い頃と少し似てらっしゃいますよね?

よく兄弟と間違えられました。今は見る影もないけどね(笑)。皆に可愛がってもらいましたよ。最初はそれでええわね。でも生活は困窮してくるし、「こんな状態なのよ」「ほんまあ、大変やね。また楽屋来てね」で、また次の日も楽屋行って、お気楽な会話の繰り返し(笑)。
もともと知ってる人も多かったけど、そんな風に楽屋に出入りしてるともっと知ってる顔が増えてきて、その当時は歌舞伎の芝居が少なかったから、歌舞伎の役者さんも結構色物にも出てたし、女優さんの知り合いとかも増えてくるのよ。で、どんどん顔が広くなって、そのうち「踊りの会があるから挨拶文書いてくれへん」とか言われて、それをサーと書いて小遣いを貰う。でも、それでは生活は出来ないからね。嫁もデパートに働きに行ってたけど、そうすると時間もすれ違いになって、ある時家に帰ったら部屋が真っ暗けで、そこに嫁がじーっと座ってんねん。「どうしたん?」って聞いたら「電気止められた」って(笑)。「しゃーない。蝋燭買ってこよか」って。僕は子供の頃から切手コレクターやったけどそれも売って、100万円位なるかと思うたんが2万円位にしかならへんかったり(笑)、まあ、僕はそんなんも楽しかったけど、女の人には耐えられへんかったみたいで、別れたんですけどね。彼女にはほんとに可哀相なことをしました。

まあそうして楽屋に出入りしてるうちに「今度、○○さんが踊りの会やらはんねんけど手伝ってあげてくれへん?」とか、そんな話がきだして、そうすると水を得た魚のように、「ああしよう」「こうしよう」と思ってね。頼まれることも、貰えるお金も増えて来ました。

昔は先生みたいなことが出来た子が、少なくとも先生、は、いらっしゃった訳ですよね。

たまたま道楽者がおったっていうことやものねえ(笑)。

頼まれても、そうした仕事が出来る人ってそうそういませんよ。おまけに若くて可愛い僕ですし…。

そうね。そういう点では重宝がられたみたい。その頃に13代目仁左衛門さんから、「東京には俳優協会があるけど、関西にもお世話してくれる人が欲しいから、関西俳優協会というのをしてくれへんか?」ということになって、南座の中に事務所を作ってもらって、その仕事をするようにもなりました。まだその頃には関西にも大名題の役者さん達が結構いらっしゃっいましたからね。

いきなり事務局長さんですか?

僕しか居てへんねんもん(笑)。そうしたら、会費を役者さん達に集金しに回わらなあかんでしょ。今までは僕は楽屋に来るお客さんやったけど、今度は役者さんが使ってるっていう立場やからね。扱いが違うようになりました(笑)。
 
徳三郎さんの後援会もされていたのですよね。大丈夫だったんですか?

徳三郎さんの後援会の方は、関西俳優協会より先にしていたからね。切符のお世話とかもしてましたよ。
で、まあ、それだけじゃあかんから、東京でその頃は、国立劇場で青年歌舞伎祭というのがありまして、切符を売ったら半分は国立に納めなあかんけど、その代わり、道具とか衣裳とかを全部国立が持ってくれて、残りの半分をギャラとか交通費とかに使うことが出来たので、「それなら出来るな」と思って、その公演を3回位やったのかな?

伝説(笑)の渋谷ジャンジャンの公演はその後ですか?

そう。その青年歌舞伎祭をしてたら、ジャンジャンのプロデューサーの高島さんという方がみえて、「ジャンジャンで歌舞伎をやりたい」とおっしゃってね。ジャンジャンが一世を風靡してる時だったけど、関西の人間だし知らんしねえ、それで徳三郎さんと二人で小屋を見に行って・・・100人ちょっとも入ったら一杯になるんちゃう?みたいな小ささでしたね。
でも、こうした空間で歌舞伎をやったら面白いやろなーとは思いました。徳三郎さんももちろん演劇青年ですから「やりたい」言うてね。他にも歌舞伎の役者さんにも出て貰いたかったんだけど、そうした小屋で初めてやる訳だからなかなか難しくて、あとは新劇の役者さんに出演して頂いたんやけどね。吉行和子さん、橋爪功さんとかが出てくださった。
4回位やったのかな。「平家蟹」「按摩と泥棒」「四谷怪談」「梅川忠兵衛」…。

小さな小屋がぴったりきそうな芝居ですね。心理描写が伝わるし面白そうです。

そう思ってね。客席が近い怖さはあったよ。「四谷怪談」なんかは仕掛けが見えるんちゃうかと思って、奈落もないし、色々工夫してね。でも、またそれも面白かった。
ただ、歌舞伎と違って、稽古や準備期間が長いし、関西からやからまず住む所がいるねんけど、キャパ狭いし、入場料が安いから、宿泊費なんか出ませんと言われるしね。こっちも若いしお金もないし、仕方ないからジャンジャンの楽屋に寝泊りさせてもらって・・・楽屋が1階やからドアをピロッと開けたら、すぐに横にホームレスの人がいらっしゃって仲良くなったりしてね。お風呂は一週間に1回サウナ、ご飯は渋谷の駅前で売ってる一番安かった280円のコロッケ弁当・・・けれど楽しかったあ〜。好きな芝居やってるからね。こうして話すと苦労話みたいやけど、全然楽しかった。20代から30歳にかけての頃やったね。

先生は徳三郎さんの芸を信じて、役者として愛してられたんですね。でないとそこまで出来ませんもの…。

愛してたよ。徳三郎さんは僕よりだいぶ年上やったけど、同士って感じ。
けど、役者さんというのは、舞台で輝いてる分私生活は我儘やから、それはある程度許容してあげないといけないけどね、まあ、しかし、徳三郎さんとはケンカをしてしまいましたが(笑)・・・。
そして思うのは、今の自分がいるのはやっぱり徳三郎さんのお陰やということ。
仕事で悔しかったことがあるからこそ、もっと自分が色んなことを身につけていかなあかんと思ったし、そのためには、役者さんと一緒くらい芸のことを知ってなあかん、そうしたことがバネとなって、舞踊や義太夫や常磐津やそうしたお稽古をあらためて本気で習いだしたんですよ。挫折する気持ちなんてさらさらない。「なにくそ」みたいな気持ちやったね。石にかじりついても芝居に向かい合っていこうと思ったし・・・。

舞台の神さんみたいなのがいてね、役者は「一度やったらやめられん」と言うけど、演出家やプロデューサーも一度やったら、その芝居の神さんがやめさせてくれへんのよ。
僕は探究心が強いっていうか、これやったらこれ、これを知ったらこれはどうなってるの?みたいなね。それで声明(しょうみょう)まで行ってしまう訳よ(笑)。でも基本は歌舞伎、歌舞伎を知るために色んなことをした、義太夫の発声はなんでこうなってるのかと考えるから、声明に興味を持ったりとかね。