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A&C ('87-'94)

関西の展覧会を主に取り上げた批評誌A& Cの編集もされてましたよね。

これも学校の仕事の一つで、勤めていた大学で発行していた季刊誌です。(最初は2ヶ月に一度だったんですが)。A&Cというのはアートとクリティック(批評)の略なんですが、Cには批評だけではなく、作り手と観る側のクロスする場という意味も含んでいて、批評の重要性とともに、いろんな立場の人がクロス出来る場という、またメディアの中心は東京で、現代美術専門誌BT/美術手帖の誌面などでもやはり東京の動向が中心に扱われていて関西の展覧会を取り上げるページはほんの数ページ、毎月2つか3つ程度という状況で、さっきも言ったように、展覧会というのは終わってしまうと、それまでなので、 関西の展覧会の批評、展覧会のドキュメンテーションとして、その作品、展覧会を語る言葉や場が必要なのではないかと1987年7月に創刊されました。ちょうど80年代は日本全体がそうだったように時代の空気というかが熱くて元気があって、いろんな作家が出てきて賑やかな時期でもあり、たまたま私と同世代の人が美術館学芸員として働きはじめた頃で、積極的に展覧会を見て歩いて書き手となる人もたくさんいて。本自体の体裁はシンプルで、中面もカラーページがあったわけではないけど、関西の展覧会状況が分る唯一のメディアとしてA&Cは重宝されるようになりました。今見返してみると、作っていた当時よりも、よりドキュメンテーションとしての資料的価値が意味のあるものになっていると感じます。

原さんが発案してはじめたものなんですか?

そうではなくて、与えられた一つの仕事として編集をはじめました。尾崎信一郎さん、篠原資明さん、建畠晢さん、六人部昭典さん、森口まどかさんというメンバーで編集委員会が構成され、事前に展覧会情報を集めて会議を行い、次号の内容を決定していくというシステムでした。私はもちろんのこと、委員会の先生方や書き手となる若い学芸員や大学院生の方も、まめに画廊を観て廻ってましたので、画廊の方にも、あの頃は活気があったけど…っていう話も耳にします。
 大きな会社でもなければ、上司から編集方針について指示が下されることもなかったので、自由にさせてもらえましたし、この仕事を通しての出合いや学ぶことも多々あり、仕事が喜びでもあったし、とても充実していました。作業自体は大変だったけれども、やっていくうちに、周囲の感想を聞いたり、関西に限らず多くの人に評価されたりして、それが自分にフィードバックされて、もっといいものを作ろうとのめり込んでいきました。
大学は単年度の予算なので、毎年秋には来年度の方針やこんなことをしたいというプランを提出して予算を要求しなければいけないんですが、本当にこの媒体が大学にとって継続する必要があるのかどうか何度も問われるんですけどね。個人的な楽しみになっていないかとかね(笑)。その度に、これは意味のあることなんだと説得?して。とても 重要なことなんだと思ってやっていたんですけど、アーティストで私が就職した同じ年に大学の講師をはじめた友人には、「原さんの意地でやってるようなもんやもんなあ」と言われたこともあって、その時はさすがにショックを受けましたけどね(笑)

アーティストインレジデンスのリサーチ
大学の学外施設を作ろうとしていた時、どういうスペースにするのかというリサーチをしてたんですが、ちょうど、茨城県のアーティストインレジデンスのアーカスについて(調査段階だったんですが)新聞に載っていたんです。海外ではそういうシステムがあるというのは知っていたけれども、日本ではまだほとんどなかったし、アーティストインレジデンスを大学でやってみてはどうかと、研究会やシンポジウムに参加していろんな人の話を聞いたり、海外へもリサーチに行きました。たまたま国際交流基金がアーティストインレジデンスについてのリサーチをはじめたところで、フランスの機関からゲストを招聘して東京でシンポジウムを開いたりしていたので、それをすこし角度を変えて美術教育という視点でうちの大学でもシンポジウムをしましょうと彼らを京都にも招くことにしました。こういう場合は、たいがい急に決まるので大学から捻出できる予算が限られていたり、予算内では収まらなかったりするので、企業に協賛をお願いに行ったりということもしました。こういう経緯もあって、国際交流基金のアーティストインレジデ ンスのリサーチにも関わって、学外での仕事にも積極的に加わるようにしました。

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