log osaka web magazine index
吉朝「こないだから、ずっと思ってたんやけど、味方さんの声って、僕の知ってる人の声によう似てるねん(笑)」

味方「でも、僕、どっちかというと難声ですよ?喉弱いし、ちょっと鼻にかかってるし」

普段の声と、謡を謡う時の声と、全然違いますもんね

味方「うん。前に僕がお弟子さんに稽古してるのを襖を隔てて聞いてた人が、 ‘二人で教えたはるんかと思った’って言わはって。つまり、謡を謡うてる人と説明してる人と、二人いると思ったんやて。吉朝さんはあんまり変わらはりませんねぇ」

吉朝「うん。僕は普段の声と高座の声と一緒やね」

味方「そうですねぇ。緊張させるタイプの声と、弛緩させるタイプの声とがあると思うんですけど、僕は普段が弛緩させるタイプの声なんで…」

吉朝「そうやね、僕は、どっちかいうと、緊張させる声かなぁ」

味方「ほんで、<マクラ>の時、最初、わりと引いて話さはるでしょう?なんかこう、ちょっと<間(ま)>をとってみたり」

吉朝「そやねぇ」

味方「でも、そのほうが、お客さんが‘聴こう’という態勢になる。今日なんかは、マイクの調節ってどうなんですか?」

米朝事務所の阿部嬢「前座のあさ吉のところで調整しておきます。<マクラ>では小さめでも、噺に入ったら声が大きくなるのがわかっているので、そのままにしておくんです」

吉朝「んー、あんまり引きすぎて失敗することもあるねん(笑)。今日のお客さんは、素直に入ってくれてたけど」

いい雰囲気でしたねぇ

吉朝「せやけど、全然あかん時もあんねん」

味方「世阿弥さんも、<時の間にも、男時女時(おどきめどき)とてあるべし(=一瞬というような短い時間にも、運が向いている時と向いていない時がある)>って言うたはりますもん」

吉朝「世阿弥さんが、そない言うてはるんやったらなぁ(笑)」

 

 ふぅ…やっと能の話につながってきたぞ?善き哉。
 「あぁ〜、ええ気分や〜、酔うてきた〜」

 

味方「今度、大阪で『邯鄲(かんたん)』をさせていただくんですよ」

<花形能舞台>っていう催しなんですけどね

吉朝「あ、それ、僕、伺いますよ」

味方「ありがとうございます。前に、HEPホールの『自然居士(じねんこじ)』も見ていただいて」

吉朝「あれ、面白かったよね。能楽堂と同じように演るんやなくて、舞台を客席にしてみたり、お客さんの間から出て来たりしてたでしょ?能にもこんな面白いこと考えてる若い人がおんねんなぁと思て。それに、味方さんの自然居士、ごっつ恰好よかったよね」

味方「ありがとうございます。あれが本来の私の姿です(笑)」

(笑)あと、イシハラホールのも

吉朝「うん。あれは装束を付けないで、謡と舞囃子ばっかりやったでしょ。クラシック専門のこじんまりしたホールやったし、ああいうとこではシンプルなほうが、そのものの魅力がわかってええよね。音もいいし。能楽堂もええけど、いろんな場所でやるっていうのはいいですよね」

味方「思いっきり現代的な空間でも演りますよ(笑)。僕、<座敷能>というのをやってて、お寺なんかの座敷で、蝋燭の灯りを使って能を見てもらうんですけど」

仄暗いっていうのがすごくいいんですよね。蝋燭のゆらめきとか

味方「もちろん、蝋燭の灯りだけでは暗すぎるので、補助的に照明も使うんですけど、アプローチの足許にも設えをして、虫の音がしてたり、鳥が鳴いたり、風が吹いて木がざわざわ言うたり。そういうところで、落語もええと思うんですよ」

吉朝「いいねぇ、それ」

味方「落語でも能でも、やっぱり肉声を聴いて、肉眼で見んとあかんと思うんです!その時その時のお客さんの<気>みたいなもんを感じひんとね」

吉朝「そや!ほんまにそやねん!」

 

 と、二人は握手。
 「大将〜、ご飯粒食べたいねん。何がある〜?」
 「ほな、ねぎトロ丼とじゃこ飯、しましょか」
 「お漬けもんと赤だしもね〜」

 

 

 無理やり、最後は能の話に持ってった感じ。
 もとより、他のところでもしている質問はしなくていいと思ってはいたけれど、それにしても、落語好きのファン(味方玄と石淵文榮)が二人とも語りすぎて、いや、実際はもっと語ってしまっているのだ。
 …独演会の後だから、しょうがないよなぁ。
 でも、呑みながらの与太話でも、ちょっといいでしょ?
 どうです?芸の話をする二人の楽しげな表情。
 
 私としては、その舞台から共通するものを感じる二人なのである。
 “端正”とか“正統派”という言葉がよく似合う。
 あくまでも、“王道”を行ってほしいタイプ。
 確かにそうなのだけれど、決してそれだけじゃない。
 自信たっぷりに見えて、その実、ものすごく謙虚だ。
 そうじゃないように見せてるけど、ほんとはすごく涙脆かったり、感激屋だったりするんとちがうかなぁ。
 私の好きな世阿弥の「稽古は強かれ、情識はなかれ」という言葉を、故8世観世銕之亟さんは、「ユニークであれ、ナイーヴであれ」と読みかえたのだと、大倉源次郎(おおくら・げんじろう/能楽小鼓方大倉流16世家元)さんから聞いたことがある。
 ユニークでナイーヴな二人。
 もちろん、<桂吉朝>のほうが<味方玄>よりも、ずっと先輩だし、これはあくまで私の感じているものなのだけれど…
 芸を生業とする人が大切にしている<心>が似ているのかなぁ。
 そういうことを言うと、二人から、「そんな、アンタたいそうな」と笑われるだろうか。
 ああ、こういう人たちと同じ時代を生きているって嬉しいねぇ。
 こういう人たちとお酒を呑んで与太話をするのは、ほんとに楽しい。

 
[ 5 / 5 ]