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それで、とりあえず東京に行かねばならんと思って、いくつか大学を受けたんだけど、受験勉強を一切しなかったもんだからことごとく落ちまして(笑)。それでも18歳の時に上京してしまって、名目は美大を目指すということで、池袋の方にあるすいどーばた美術学院に入学しました。そこで勉強を半年くらいしてから、天井桟敷の入団試験を受けて、入ったんです。学校の後期の授業料は、生活費に当ててしまいましたね(笑)。

それが74年。しばらくして、舞台監督をやっていた先輩たちが次々辞めていったんで、舞台監督をやるようになるんだけど、まだ20歳とか21歳。他のパシリ仕事もやっていたし、短編映画を撮るとなると演出助手も俳優もやった。もう必死でしたよ。生活なんかは、劇団員全員できていない(笑)。劇団に維持費を毎月払わなくちゃならないし、ギャラは原則ゼロ! 僕は最後まで、交通費くらいしかもらった覚えがないよ(笑)。だから劇団員はみんなバイトしていて、男は肉体労働、女は水商売が基本。ただ役者はそれでいいんだけど、僕らスタッフは拘束時間が長いんで、もっと融通のきくビル掃除とか、最後の方はTVの大道具とか。脱落していく奴はもちろん大量にいましたよ。

天井桟敷にいた10年は、いまだに客観的に見れないんです。当時のことはいまも夢に出てくるからね(笑)。完全に青春というか、自分の20歳代と重なっているから。その10年で時代も社会も、そして寺山さんもだんだん変わっていったのは確かなんだけど、僕は若かったし、失うものも何もなかったから、83年5月に寺山さんが亡くなって天井桟敷が解散した時も、まだラジカルな気分というのは全然キープしていましたよ」


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