「で、そのあとただブラブラしててもしょうがないから、明治学院大学の学生を中心にパフォーマンス集団を作ったんです。アップリンク・シアターという名前の。それは明学とplan
Bと原美術館で3回公演をやっただけで消えたんですけど、その短い間に、世間のいろんなことに気づきましたよね。例えば、天井桟敷の浅井隆だと大手新聞も宣伝にいっても一応話しを聞いてくれるんですけど、アップリンク・シアターの浅井隆だと一切記事にならなかった(笑)。なるほどなぁ〜と思って。天井桟敷の鎧を外した一個人の浅井隆としては、まだ何者でもないんだなって。早く気づいてよかったけどね、まだ30前だったから(笑)。
そしてそのあと、ある仕事を通して山本政志と意気投合しまして、あいつの監督した『ロビンソンの庭』に関わるんですよ。プロデューサーとして。ただ資金は彼の身内の遺産だったし(笑)、ビジネスということはまだ全く考えてなかったですね。それで山本というのもわがままな人間なもんで、深く関わるのはまずいなと思って(笑)。『ロビンソンの庭』の配給が終わった段階で、今度は自分が惚れ込んだデレク・ジャーマンの『エンジェリック・カンバセーション』を配給してみようかなと思ったんです。
天井桟敷には人力飛行機舎という別組織があって、映画は全部そこの名義だったんだけど、僕はそこでいろいろやっていたから、映画を作って、上映するという流れはわかっていた。それで人力飛行機舎の時に、ジャーマンの長編処女作『セバスチャン』の上映をしないかという話があったんですよ。結局ポシャってしまったんだけど、そこからもう僕とジャーマンの関わりは始まっていたわけですね。
で、『エンジェリック・カンバセーション』を吉祥寺バウスシアターで上映することになりまして、その時にアップリンクという名前を使ったんだけど、まだ法人にはしていなかった。そのあと、ジャーマンの短編を渋谷パルコのパート3(いまのシネクイント)でやる際に、会社にしたんです。
それが87年。以降、ジャーマン作品には製作の段階から関わっていくようになるんだけど、とにかくジャーマンという人は、あまりにも強力な磁力を持っていたからね。イデオロギーとしても、社会転覆という要素が強いし。僕にとって寺山さんに代わる存在になったわけです。そういう意味では、アップリンクは天井桟敷を継承しているといえるかな。
結局、二人とも死という形でパタッと終わっちゃったわけだけど、自分が一緒にやりたいと心から思えるカリスマ的才能がまた欲しいとは、やっぱり思ってしまいますね」
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