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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


06 ベルリンの「今」を切り取るダンス

なにゆえそんな現在へ?

 舞台奥に一段高くしつらえられた、大きな横長のガラスケースのようなものの奥には、公衆トイレのような扉の並んでいて、ガラスケースの両端から階段でつながる舞台中央の空間には、可動式の衝立、扉、カウチ、椅子、クッションなどの家具が、場面毎に持ち込まれ、入り乱れてゆきます。登場するのは、ジャージやスポーツウェアなどの、ポップカルチャーのしるしとなる衣服を身につけた若者たち。と、ゴミ回収人、掃除婦、ドラマーやギタリストたち。彼らは、歌い、踊り、キスをし、じゃれ合い、体をこすり合わせ、楽器を奏で、ぬいぐるみを投げ合い、片づけ、椅子からのダイブやカウチでのジャンプに興じます。

 それは一見、愛する者の体に触れたり、自分の体を危険にさらしたりして得られる感覚の中に、「今」を味わおうとする若者たちの日常を切り取っているかのようにも見えます。確かに、はちゃめちゃなエネルギーでぶつかり合う彼らの関係は、大人の愛憎劇には展開しないし、個々のパフォーマンスをコラージュするし方も、思春期の若者の会話のように脈絡がない。彼らの関心はひたすら、冒頭でパフォーマーたちが唱えた二つのことをめぐっているようです。「わたしたちは踊る。そして踊るように愛する。」(あるいはその逆だったかも)作品を貫くこの言葉は、愛し合うことと踊ることが、今を最も強烈に感じる手段だと知っている若者たちの台詞のようでいて、たぶん、ダンスと生活を切り離し得ない営みとして遂行するパフォーマーたちの本音でもあるのでしょう。同様に、作品のそこかしこには出演者たちのパーソナルなつぶやきとおぼしきコメントがちりばめられ、彼らが行うコンタクト(コンタクト・インプロヴィゼーションのテクニックを使った振り付け)も、ダンスとして振り付けられたそれに比べて、より日常の身振りに近いものに感じられます。

 そんな風に重なり合う、ベルリンに生きる若者とパフォーマーたちのリアルな現在への執着は、ばかばかしくも身につまされる感じで、凄まじく笑えます。前に座っていた女の子たちなんか、きゃーきゃー言いっぱなし。けれども、身も心もさらけ出すかのようなパフォーマーたちの、奇妙に外に向かったテンションは、実は演じられたものだったりするんですね。もちろん出演者たちはまぎれもなく演技をしているのですが、導入部のもう一つのアナウンスが告げたように、その逐一は、かのリアリティ・ショウという設定の中で行われているのです。つまり彼らは、扉によって隠された領域があると装いながら、実はすべての振る舞いが不特定多数の視線に晒されている空間の中で、リアルな自分を演出する人物を演じていることになります。このリアリティ・ショウほど、個人的で私的な営みをばかげたものに見せる枠組みもないでしょう。視聴者投票で人気を得た者が生き残るという見せ物の中で、踊ること愛することの切実さは、「愛されようとして演じられた」リアリティへと転じてしまうのですから。

 そうやってかたちづくられる「今」に対して、どうやら彼らの心の扉の後ろに隠された部分を示すのが、合間に挿入される映像のようです。ぺらぺらな音色で奏でられる『yesterday』をBGMに、舞台空間を遮ってしつらえられる壁に映し出されるのは、何をやっても災難続き、遊園地でひとりぼっち、ばかみたいな間違いから二つの殺人を犯してしまった、悲惨で不安な僕/わたし。そんなごみのような記憶を押しやって、彼らは「愛される自分」にふさわしい断片を選り分け、カメラに向かって物語を紡ごうとします。けれども、語るほどに見えない観客の嘲笑を買い、別の断片を拾いあげ…ということを繰り返すうちに、愛される僕やわたし、たしかな「今ここ」をつかみ取ろうとする試みは、ことごとく失敗するのです。

 こんな風に、『現在へ遡行せよ』の中で演じられる「今」は、フェイクで屈折していて惨めです。なのにマクラスは、なにゆえそんな「過去の瓦礫の中の現在」に立とうとするのでしょう?それがテレビをフリップし続けるベルリンの若者の現実だからなのか、はたまたそのような現実に加担するメディア産業や、視聴者ののぞき見趣味を批判しようとしているのか。でも、リアルさを演じる人とそれを眺める人が共犯関係にあるという部分では、芸術として行われるダンスも同じでは?

 このへんの受けとめ方、楽しみ方はさまざまなのですが、面白いのは、この作品が、最近のベルリンの芸術文化を取り巻く状況と、そこで生み出されたコンテンポラリー・ダンスのある傾向と、ネガポジのような関係を結んでいるように見える点です。というのは、この作品が初演された2003年当時、記憶と歴史をめぐる闘いが、シリアスな芸術の領域でもすごーく大きな関心を呼んでいて、ダンスでも、サシャ・ワルツのように記念的な場所とその場に溜まる記憶にリサーチした作品が高く評価されているのです(これも『演劇都市ベルリン』に詳しいです)。そんな中で、わりと歴史に触れる建物で上演しておきながらそんなことはおくびにも出さず、「今ここ」に執着するというのも、けっこうな挑戦なんではないでしょうか。それはいうなれば、ベルリンの街並みやその中で暮らす人々の生活が激変する中、何を記憶に留め思い出そうとするのか、忘れたい、いや忘れたらいかんといったところをめぐって、芸術文化が繰り広げる喧々囂々に参加しませーん、といった意思表示と同じことだからです。同じようなところで、「現在」をゴミの山のてっぺんに築くことは、価値のあるものの積み重ねであるような文化そのものに対する反抗にも通じているようです。こういうと、とても子供っぽい反抗のように聞こえてしまうかも知れないけれど、それはたかだか身の回り1メートルばかりの「今」を肯定しているのとはわけが違います。ベルリンの、ダンスの「今」というのは、どんな取っ組み方をしても、「今」じゃないものの底なし沼のようなところで、足をとられつつ生み出されるもののように思えるからです。

 最後に、マクラスは去年、ベルリンの中でも移民の多いノイケルンという地域の子供を数人巻き込んで作品を作ったらしいのですが、そのときのインタヴューで、「意味も理解せず、よいわるいといった判断さえ保留してすべてを受けとめる」子供の記憶に興味があると語っています。このすべてを受けとめるということは、たぶんに100%現在を生きるということにもつながっているのだろうし、そんな風に考えるマクラスが彼らと作業したことで、どんなダンスを生みだし、それがベルリンの現在をどのように映しだしたのか、どのような未来のダンスにつながってゆくのか、またとても興味の湧くところなのです。


コンスタンツァ・マクラスとドーキーパークのサイト ++++++++++
http://www.dorkypark.org/
太鼓ウサギさんに迎えられ、がらくたの山と英語のテクストの中をかき分け進むと…
『Back to the Present』の映像にもたどり着けます。

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