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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


12 京都の夏の体感温度 1

ワークショップの内容をもとに考えるなら、それはまず、人と人の間で動きが紡ぎだされていったことと関係しているのではないかと思われます。相手にこう動いて欲しい、だからこう触れる。そして相手が返してきたものに応じて、自分がこう働きかけたいという衝動が生れる。つまり、ここで踊ることは、主体となり客体となることが絶えず切り替わる関係の中で動くということでもあるのです。こうした双方向的な働きかけの中で成立する動きは、ディスコミュニケーションやミスコミュニケーションも含め、二者の間で起こる出来事を現在進行形で映し出し、見る者をはっとさせるような相貌を帯びることがあります。同様の現象は、ノン・ダンサーが参加するワークショップでは珍しくないように思われるのですが、中でもコンタクトの手法は、日常の設定をはずした上で、人が人の間で動くときに生じる普遍的な事実に通じる何かを、引き出す優れた装置なのかも知れません。

坂本「僕がコンタクトが好きなのは、リアリティーがあるからなんです。この人がここにいることは回避できない。別にコンタクト一筋ってわけじゃないんだけど、コンタクトは結局コミュニケーションの話なので、掘れば掘るほど発見があるから面白くてたまらない。一人一人の体も違うし。一人でできる動きと二人でできる動きは違うし。そうやっていろいろ発見していけるのが楽しいんです。」

ところで、そうやって引き出された「何か」が帯びる事実性は、テクニックに支えられた“アート”としてのダンスが備える興味深さとは、本質的に異なるものであると考えられます。確かに、ビギナークラスの後で、本格的なクリエイションクラスを見てみると、両者の質の違いは歴然としてある。けれども、踊って見せるのが人であり、それを見る私も人であるなら、ダンスをこの人間の間に起きる現象から切り離すこともまた、簡単ではないように思われます。「で、あれって、どこからがダンスだったのでしょう?」という疑問が、参加者から発せられたのも無理はありません。

この、ダンスの定義に関わる難問に対する坂本さんの返事は、「僕個人は、見る人がいて、見られる人がいたら踊りだと思っています。」というものでした。

坂本「僕はダンスを始めるのが遅くって、25才なんですね。その頃、フレームを仮想して鴨川を眺めるのが好きで、毎日そういうことをしては、『これはもう映画だ、かなわんわー』って、打ちひしがれていたんです。極論すると、視線が劇場を作るという考え方ですね。でも、そこまで割り切ったダンスができればいいんだけど、実際に作るときはそうもいかなくていろいろやるわけですが(笑)。」

この極論の中で、“見る”ことは、一見、一方的にイメージを投げかける行為であるかのように語られています。けれども実際にクラスで行われたのは、「動く」と「動かす」のワークと同様に、「見る」と「見られる」すなわち「踊る」が絶えず入れ替わる中での、双方向的なやりとりにもとづく作業でした。つまり、視覚は、相手に触れ、働きかける動きと連続しており、その間に起こる現象によって常に構えを新たにしている。その時に大切なのが、先に触れた事実性、すなわち「リアリティー」を積極的に求めることなのかも知れません。

坂本「自分の体はイメージである程度動かせるんだけど、他者に対しては、どこから触れていっても、相手の体の状態をリサーチして、感じ続けることが必要だと思います。大事なのはリアリティ。例えば、リアクションのときは鉄でも風船でもいいんだけど、それをイメージして動いてもそれは僕のイメージの世界。それに対して、どう触れるかはひとつのリアルな事実。」

恐らく、「動きを読む力はダンスを始めてから強くなりました」と言う坂本さんの視線は、踊る経験を重ねるごとに、このリアリティーに対するセンサーを研ぎ澄ましているのでしょう。そうであるなら、坂本さんの視線を通過しアレンジされた動きが”見られる”質を獲得したのも頷ける気がします。ダンスのワークショップは、このように動き、見られ、見るということの実体験をとおして、そういったダンスの瞬間を見る、感受する“アート”を磨く場でもある。このアートは、舞台の上と限らずとも、普通に生きてる誰もが、日々の中で”ダンス的”瞬間を発見し、創造してゆくために、生かす事ができるのではと思われるのでした。

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