log osaka web magazine index

日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


34 アジアの現在 LIVE ARTS BANGKOK


               コラボの現場 in バンコク

                                  Text+Photo:いわさわ たかこ



 2007年8月、SEAMEO-SPAFAの主催によりバンコクで開催された 「ライブ・アーツ・バンコク」 において、インドネシア、カンボジア、シンガポール、タイ、フィリピン、香港(中国)、マレーシア、ミャンマーに加え、日本からの招聘アーティストが一堂に会した。
 今回は、バンコクに3週間滞在した日本のコンテンポラリーダンサーでありコレオグラファーでもある山下残(以下残さん)と、タイ人アーティスト、トンチャイ・ハナロン(ダンスグループ「コモンラグーンKomonlagoon」代表。以下は通称のボイ)とのリハーサル現場をリポートしたい。

 8月17日の本番までに実施されたリハーサルのうち、私が参加させてもらったのは5日間である。残念ながら私用で本番を見ることのできなかった私であるが、リハーサルの現場に立ち合った5日間におこった出来事、その間に拾い集めた2人のアーティスト、彼らに関わった人々の言葉などをここに書き留める。

《8月2日 13:00-16:00 @ラオペーングワン17階の一室》

 スタジオ最寄り駅であるBTSのMochitという駅で残さんと待ち合わせ。今日から2日間2人のアーティストの通訳を務める日向伸介君(京都大学大学院アジア/アフリカ地域研究研究科博士課程)も参加する。歩く事20分。8月の中旬にボイが参加したインドネシア、ジャカルタでの公演のスポンサーが提供してくれたスタジオは、背の高いオフィスビルの17階にある。前日に行われた初日リハーサルは、残さんとボイが2人+ライティングデザイナーのユッタチャイ・ウタヤーニン(以下通称のドッジ)と3人でやったとのこと(この日も途中からドッジも参加する)。通訳が現れてほっとした様子のボイは、彼のいる2日のうちに残さんのテキストを理解し、覚えようと考えたようだ。とりあえず、テキストの最初から半分くらいを説明するというのが本日のメイン作業となった。
 

 
 

 
                            テキストを手に内容を確認し合う三人


 通訳を介して、残さんは、テキストの意味する振りについて、その説明をしてはいるが、動き方については基本的にボイに任せているようだった。

 3時間のリハーサルが終わったあとで少しボイと話してみる。「僕が通常行っているコンテンポラリーのパフォーマンスは、プレーン(歌、歌詞のこと)がないので、残さんのパフォーマンスのようにテキストのあるものには慣れてないんです」とつぶやく。俳句にチャレンジするのも初めてで、「日本の俳句って難しいです。でも、日本人だったら、俳句のことわかるんでしょう?」と私に聞いてくるので、「日本人でも全然わかりませんよ」と言っておいた。残さんが日本から持参したテキストは、日本語と英語のバイリンガルで構成されていたが、そこに書かれた英語訳も微妙に異なっているわけだし、それほど英語が堪能でもないボイには、そこに込められたニュアンスもなかなか伝わりにくい。しかしながら、身体で理解する速度はかなりのものであると感じた。
 また、残さんに「今日はどうでしたか」と聞いてみると、「いつもの作品づくりにくらべてボイに振り付けるのはやりやすいと思う。どちらかというと僕の言葉に従順すぎるくらいだと思います。」と言っていた。それから、残さんに質問をぶつけてみた。

 【音楽とダンスの関係について】

残 「僕はもともと音楽を作ろうとしていた人間なのですが、今回の作品では音楽を使用する部分は少ない。使っているところはダンサーが主に舞台にいないときです。これは全くの無音だと不安に感じるお客さんもいるので、少し安らいでもらうという意図もあります。振付にリズムをつけるように音楽を使っている場面もあるが、そういうことは今まで作ってきた作品の中でも少ないです。なぜかというと僕にとって、ダンスは音楽を作るのと同じことだからです。」

時々、ボイに振り付けをするとき、音楽のように、フレーズを奏でるように動いてほしいと注文したりしているのもそのせいか……と私は妙に納得。

 【作品で俳句を用いたことについて】

残 「この作品は、すべて尾崎放哉の俳句を引用しています。ただ、『水道』や『カイロ』など、今の時代に合わせて言葉を変えた部分もあります。また、俳句の中の言葉を切り取ってはぎ合わせた部分もあります。それを(パズルのように)つなぎ合わせて、一つの物語になるように並べたのがこの作品です」

だからこそ、この作品からは行間の重みがすごくある。残さんの身体は、テキストと同時進行で(?)、その行間にしみ出る物語を紡ぐパフォーマンスを演じきろうとしているのだと勝手に納得してしまった。

■ みんなで「残さんの考え」を聞く

 リハーサル終了後、参加した5人全員で夕食。コレオグラファーの残さんに対して、その考え方に興味を示していたドッジがどんどん質問。リハーサルの中では見えてこなかった残さんの思い、コンセプトが参加した私たちのなかで次第にあらわになってくる。
 

 
 

 
            リハーサル終了後、近くのデパート内にあるイサーン(タイ東北部)鍋料理屋にて


ドッジ 「からだとテキストはどうリンクしているの? 演劇とダンスとの関係は?」

残 「テキストを介するとどうしても演劇とダンスの境界線が曖昧になってきます。だから、テキストを身体で表現するときイメージを膨らませすぎるとどうしてもそれは演劇になってしまう。だから僕はあえてこの作品を『ダンスにする』ために、テキストと身体が寄り添いながら、40分間その緊張感を持って進行するようにつとめた。そうする事でダンスになると思う」

ボイ 「リハーサルの中で示される残さんの動きはとてもすばらしいし、この作品の中での動きは、なんて言うかリアルだと思った。でも僕自身は彼とは違う別の踊り方(身体?)を持っているので、その僕が残さんの作品をやろうとするとなんだか演劇みたいになってしまう感じがする。言葉を表現するという事にやっぱり慣れていない」

ドッジ 「サブタイトルについて聞かせてください」

残 「普通外国の作品を日本で公演するとき、サブタイトルが翻訳として出ることがあります。そういうとき、動きが先で、テキストが後にくる(テキストは動きの説明という感じになる)。けれど、自分の作品ではテキストが先で動きが後になる(あくまで身体の動きはテキストの翻訳という感じ)。この感じが面白いと思った。
 コレオグラファーとダンサーの位置関係について一言付け加えると、普通、コレオグラファーとダンサーは主従関係みたいに思われがちです。でも、そうではなくて、もう少し平等というか、ダンサーも振付に対して、自発的であればいいと思っています(テキストと身体の関係がコレオグラファーの意思によって完全に決定されているという訳でないという意味か)」

 【夕食会での話を受けて、ドッジとボイの感想】

「タイでもコンテンポラリーはわかりにくいと考えられています。観客にはダンサーやコレオグラファーの意図は伝わりにくいんです。たとえ観客がわかっているつもりでいても、それは演じる側の意図と異なっている場合も多くあります。また観客側の「わかったふり」なんていうのもよくあることです。残さんの作品は、わかりやすさというか、ストレートな手段がいい。なんというか、それはとっても正しい事のように思えます」

<< back page 1 2 3 4 5 6 7 8 9 next >>
TOP > dance+ > > 34 アジアの現在 LIVE ARTS BANGKOK
Copyright (c) log All Rights Reserved.