
| 探るほどに面白い、知るほどに謎が深まる“大阪”という都市を楽しむ。 |
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「心斎橋通初売之景」長谷川貞信画(中尾書店蔵)。大阪の四季の風物詩として描かれた、心斎橋筋の初売の図。
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商店街の原型
さて、江戸だけが大きな消費都市であったわけではない。大阪もまた四十万人もの人口を抱え、これらを消費者として商売を営む小売業者も徐々に発展してきた。当時の心斎橋周辺は、蕎麦屋、古書屋、版元屋、そして昆布などの海産物、饅頭、菓子、呉服、日用雑貨品、小間物などを扱う商店が軒を並べ、すでに現代の商店街のような店揃え・店並びが形成されつつあったのである。
江戸時代末期ごろから明治中期までには、天満市場、木津難波市場、雑喉場市場など、生産者と消費者が集まってきて、せりによる値決めが行われた「市場」、そこから仕入れて消費者の手許に呼び売りする「行商人・露天商」、この露天商が一軒の店舗を構えて取り扱い品を関連商品にまで広げ、店頭で陳列・販売を行う「萬屋」、そして元禄四年(一六九一)創業の越後屋三井呉服店(現在の三越)に代表される、専業問屋でありながら高度加工品・高級品を扱い小売業化した「専門店」などが、小売業として花開いていったのである。このうち特に露天商が定期的に特定地域に集まり出店していたのが常設化し、消費者がその場所へ出かけて購買行動を行うようになった。これが商店街の原型である。
その後、大正七年(一九一八)には大阪市により公設小売市場が開設される。これは日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て、社会情勢の混乱に対して生産者直結の流通システム構築と消費者物価の抑制を目的として設計・計画されたものである。当初は東西南北四区に一カ所ずつ設置された(東区・谷町、西区・境川、南区・天王寺、北区・福島)。米騒動のときも、大阪ではこの公設小売市場で安価な生鮮食料品・日用品が購入できた。また大正八年(一九一九)の都市計画法・土地区画整理法制定により、民間の土地開発公社等により造成された新興住宅地に私設小売市場も進出していった。
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●大正8年創設の本庄公設市場。(『大阪市公設市場70年史』より)
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商店街の発展経路
それでは商店街はどのように形成されてきたのであろうか。大阪では次の四つのタイプの商店街を確認できる。第一に、専門店による商店街である。専業問屋から派生し、高級品を扱う専門店が、次第に人々の往来の多い地域へ集積していったものである。古くからの市への集積でもある。心斎橋筋、戎橋筋、九条、天王寺などである。
第二に、近隣商店による商店街化である。萬屋から近隣商店として発展してきた小売商店が、生き残りをかけて、上記の専門店商店街や公設・私設小売市場の集積に隣接するように立地したものである。非日常品を扱うことにより棲み分けを図っていったのである。
第三に、ターミナル型商店街である。大阪市の市街地拡大や道路網・交通網の整備に伴い、ターミナル駅など通行量の多い地域へその需要を見込んで商店が集積していったものである。
そして第四に、問屋型商店街である。従来から問屋が集積している問屋街が小売業化していったものである。家電品を扱っている日本橋筋などが例である。商店街の発展は、第一番目のタイプが最も古く、第二タイプ、そして第三タイプへと発展していった。その中にあって、第四タイプはこの発展経路に乗らず、独自に展開してきたものである。
第二次世界大戦後、昭和三十年代の高度経済成長期に入るとチェーンオペレーションを導入したスーパーマーケットが登場してくるが、商店街は地下商店街を中心に発展してゆく。地下商店街は、ビル地下型と地下道型に大別される。昭和二十六年(一九五一)に大阪駅前において、阪神マートが阪神百貨店となり、阪神電鉄の地下駅拡張に伴い整備された公共地下道に「全国銘菓名物街」が開設される。また昭和二十八年(一九五三)には、駅前換地に第一生命ビルが建設され、ビル地下型商店街が現れることになった。その後、なんば地下センターや梅田地下センターなども登場する。他方、既存の商店街は日本経済の高度成長に遭遇し、スーパーマーケットの急成長にも関わらず、商店街自体も成長でき、主体的に自己の経営戦略を考える気運は見られなかった。
昭和四十年代後半に入り、商業近代化地域計画によって大阪市の各商店街も近代化を進めてゆく。それは、もっぱらアーケード設置やカラー舗装などに見られるハード面での近代化であった。しかし、オイルショック、大規模小売店舗法それでは商店街はどのように形成されてきたのであろうか。大阪では次の四つのタイプの商店街を確認できる。第一に、専門店による商店街である。専業問屋から派生し、高級品を扱う専門店が、次第に人々の往来の多い地域へ集積していったものである。古くからの市への集積でもある。心斎橋筋、戎橋筋、九条、天王寺などである。
第二に、近隣商店による商店街化である。萬屋から近隣商店として発展してきた小売商店が、生き残りをかけて、上記の専門店商店街や公設・私設小売市場の集積に隣接するように立地したものである。非日常品を扱うことにより棲み分けを図っていったのである。
第三に、ターミナル型商店街である。大阪市の市街地拡大や道路網・交通網の整備に伴い、ターミナル駅など通行量の多い地域へその需要を見込んで商店が集積していったものである。
そして第四に、問屋型商店街である。従来から問屋が集積している問屋街が小売業化していったものである。家電品を扱っている日本橋筋などが例である。商店街の発展は、第一番目のタイプが最も古く、第二タイプ、そして第三タイプへと発展していった。その中にあって、第四タイプはこの発展経路に乗らず、独自に展開してきたものである。
第二次世界大戦後、昭和三十年代の高度経済成長期に入るとチェーンオペレーションを導入したスーパーマーケットが登場してくるが、商店街は地下商店街を中心に発展してゆく。地下商店街は、ビル地下型と地下道型に大別される。昭和二十六年(一九五一)に大阪駅前において、阪神マートが阪神百貨店となり、阪神電鉄の地下駅拡張に伴い整備された公共地下道に「全国銘菓名物街」が開設される。また昭和二十八年(一九五三)には、駅前換地に第一生命ビルが建設され、ビル地下型商店街が現れることになった。その後、なんば地下センターや梅田地下センターなども登場する。他方、既存の商店街は日本経済の高度成長に遭遇し、スーパーマーケットの急成長にも関わらず、商店街自体も成長でき、主体的に自己の経営戦略を考える気運は見られなかった。
昭和四十年代後半に入り、商業近代化地域計画によって大阪市の各商店街も近代化を進めてゆく。それは、もっぱらアーケード設置やカラー舗装などに見られるハード面での近代化であった。しかし、オイルショック、大規模小売店舗法の制定、周辺人口の郊外化などにより、商店街を取り巻く環境は厳しい時代を迎えることになる。このころから、商店街は積極的活性化を図ってゆくようになったのである。
天神橋三丁目では、昭和五十四年(一九七九)に振興組合が設立され、五十六年(一九八一)には空き店舗に自らカルチャーセンターを設置している。天神祭に代表されるような伝統や歴史を、イベント事業を通して地域住民や地域労働者(昼間に近隣の会社へ働きに来ている人)に対し情報発信してゆくという、文化を取り入れた商店街活動が、重視されるようになってきたのである。「商店街が生き残れないと、街が生き残れない。街が生き残れないと、人間生活が存続できない。」という視点から、ソフト整備の商店街作りが中心となってきている。平成の時代に入っても、これは変わらない。同商店街では「町街トラスト:天神天満計画」を作成し、商店街が地域の文化や伝統を積極的に守ってゆく基本方針を打ち出している。また、平成十一年(一九九九)には空き店舗対策の一環として、「天三おかげ屋台」という移動屋台によりだれでも商店街活動へ参加できるイベントを行っている。
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