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前期難波宮の柱穴の跡。前期の建物は掘立柱形式で、屋根に瓦を用いない日本古来の建築様式だった。赤っぽく見えるのが火災の痕跡 |
一角では現在も発掘が進んでいる。調査を進めている大阪市文化財協会の李陽浩学芸員に話を聞いた。
「ここが柱を入れた穴の跡です。穴の大きさから柱は直径三十〜三十五センチだったのがわかります。どこを掘っても柱穴の中に焼けた土があるので、天武天皇の時代に難波宮が焼失したという『日本書紀』の記述が本当だったことが発掘によって証明されました。遺跡の年代はこれまでは瓦や土器を見て判断していましたが、特定はなかなか難しかったんです。難波宮の場合は、火災の跡のおかげで二つの定点を得ることができました」
焼けた土の跡は赤く固まったようになっている。発掘調査地に降りると、むき出しになった地層が視線の高さにあり、歴史の積み重ねを目の当たりにできる。それぞれの地層の色や肌合いの違いは、時代の移り変わりの表現だ。大阪の土の下には古代が眠っていて、みんなその上で暮らしている。掘りかけの現場に身を置くと、そんな実感が湧いてくる。
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前期難波宮時代の巨石を用いた石組み溝。当時、大規模な排水施設が整っていたことがわかる。(大阪市文化財協会提供) |
「難波宮は公園の外にももちろん広がっていました。一帯を全部発掘できたら、全容がわかるんですが、それは不可能なので、ポイントを少しずつ掘って、地図の上でつなぎあわせて全体を掴みつつあるところです」と李学芸員。建築工事で遺構が壊れていることもある。発掘による調査の道のりは長く、歴史の解明にはイマジネーションが必要だ。そんな中で、前期難波宮が日本古来と中国の様式が錯綜し、中国の様式を取り入れた宮殿としては日本最古であることや、古式の掘立柱形式をとりながら八角形の楼閣建築を並べるなど奇抜な配置に特徴があること、後期難波宮の宮殿を解体した材が長岡京の中心部の建設に用いられたことなど、さまざまな発見があった。今後の発掘の成果が楽しみだ。
大阪市文化財協会では、現場の一部を市内の小学生に毎週定期的に発掘体験というかたちで公開している。子どもたちが実際に金箔瓦や土器の破片を発見し、歓声があがることもあるという。歴史の生きた教材に触れられる子どもたちは幸せだ。
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