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丼池筋
 上方落語にしばしば出てくる物知りの甚兵衛さんは、たまに『つる』のように口から出まかせを言うが、世話焼きで人徳もある。ただ、普段何をして食べているのかは謎。『米揚げ笊(いかき)』では、丼池(どぶいけ)に住むこの甚兵衛さんがある男に仕事を世話して、天満の源蔵町への道順を教える。「丼池筋を北へどーんと突き当たる」「でぼちん打つわ」「別にでぼちん打たんでもええのや」なんてやりとりしながら、突き当たりを右へ曲がり、栴檀木橋じゃなく浪花(現在の難波橋)橋を渡って行きなはれ、と言う。御堂筋を東に二本入った丼池筋は今は丼池ストリートと表示看板が出ている。今橋の交差点に、明治生まれの大阪市立愛珠幼稚園が武家屋敷のたたずまいで今も現役である。
愛珠幼稚園

 このオフィス街を貫く通りは『池田の猪買い』でも登場する。「でぼちん打つ」ところまでは一緒だが、左へ曲がり、淀屋橋〜大江橋〜蜆橋〜お初天神〜十三の渡し〜三国の渡し〜服部の天神さん〜岡町〜池田へと、甚兵衛さんは行き順を喜六に教えてあげる。まるで「明治時代版大阪の歩き方」のようなわかりやすさで、今で言えば御堂筋から国道一七六号線あるいは阪急宝塚線という感じかと想像できる。お初天神から十三までは旧街道が通っていたのだろう。それにしても、この『北の旅』、行き着くまで何時間かかったのか。昔の人は、とにかくよく歩いたのだ。
 江戸時代のジャンボ(?)宝くじ『高津の富』の舞台は、高津神社(中央区)。大川町(淀屋橋の南詰め、中之島・北浜辺り)の宿屋で大金持ちと大ボラを吹いたばっかりに富札を買わされ文無しになったおやっさんが、富の当日、ふらふらと高津さんにやって来る。張り出された一番の当たり「子の千三百六十五番」と自分の札番号が同じだと気付かないじれったさがなんともおかしい。高津神社の参道は木々に囲まれ、境内もふだんはひっそりとしている。昔は富札を手に群衆がわあわあと集まることもあったのだろう。耳をすませば歓声やらため息やら聞こえてくるような……。
 社殿の左奥には「絵馬堂」があり、ここは、おなじみ明治の恋物語『崇徳院』の若旦那とお嬢さんのなれそめの場である。しかし、「道頓堀まで一目に見える」と手伝いの熊五郎も自慢げに言い、大阪随一を誇った見晴らしは、今は建ち並ぶビルに阻まれて、その向こうを見ることはできない。
 社殿右の「高倉稲荷大神」は、石像のお狐様が十体もにらみを利かせていて、ちょっと怖いようなお稲荷さんだ。この高倉さんのおつかいである狐がべっぴんに化けて男にだまされ痛い目に遭うのは『高倉狐』という噺。手を合わせて振り返ったら、何かが走り抜け、狐かとびっくりしたことがある。後ろ姿をよく見ればうす茶色の野良ネコだった。
 
丼池に住む甚兵衛さんに売子の口を紹介された男、天満源蔵町へやって来る。笊(いかき)屋十兵衛さんから笊の荷売りを頼まれ、叩いても潰れない笊と言って売るようにと指南を受けて、米相場のたつ堂島へ。相場師にいたく気に入られ、着物や借家、大坂城、生駒の山までやると言われる。「うちの身上潰れてまいまんがな」と番頭。男はポンポンと笊を叩き、「潰れるような品もんと、品もんがちゃいます」
宿屋に自称鳥取の金持ちがやって来て、大ぼらを吹く。宿の亭主から頼まれ、高津さんの富くじ一枚を、一番の千両が当たったら半分やると約束してトラの子の一分銀を出して買うハメに。その札が一番に当たってしまう。ふるえながら宿へ帰り寝ている男のところへ、これまたふるえて下駄を履いたままやって来た亭主。「はよ祝い酒を」と布団をめくると、男の足下にも雪駄が……。

冷えの病には新しい猪の身を食うとよいときいた男、池田の山猟師の六太夫さんのところへ行けば分けてもらえると甚兵衛さんに教えられ、池田へとやって来た。六太夫さんに新しい猪が欲しいというと、いっしょに来いと山中へ。撃った鉄砲で目を回した猪を見て、男が「この猪は新しいか」。六太夫がつつくと、猪が逃げ出す。「ほれ、あのとおり新しいわい」

恋わずらいの若旦那。高津さんで出会った女性が別れ際、「瀬をはやみ岩にさかるる滝川の」と百人一首の崇徳院の歌の上の句だけ書いてよこしてきた。その女性を探し求めて走り回った熊五郎、床屋で女性の家に雇われている男に出会い、言い争ううちに側にあった花瓶が飛び割れてしまう。「花瓶ぐらい崇徳院さんの下の句じゃ。割れても末に買わんとぞ思う」

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