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浪花百景 新町店つき
(大阪歴史博物館蔵)
 西船場は上町や北船場に比べて、開発の遅れた新開地でした。大阪唯一の公許の遊廓「新町」が西船場に置かれた理由の一つはここにあります。徳川幕府は、遊里などを設けて人を集め、新開地を活気づける方針をとってはったんだす。新町は、京の島原、江戸の吉原と並ぶ遊廓としてその名を知られ、整然と立ち並ぶ娼家の行灯が客を誘っとりました。しかし、明治以降漸次衰え、市街化してしまいます。他の遊廓所在地のように歓楽街的な雰囲気を受け継いでもいませんから、特に説明があらへなんだら、昔ここに遊廓があったいうことは、まず想像でけしまへんやろな。
 新町の西口には、「砂場」いう有名なそば屋がありました。「砂場」は、新町の西口の地名で、それが店の呼び名になったんです。大阪名物として、日々数百人が訪れる『行列のできる店』やったんだす。庇が蛎殻で葺いてあるんは、火災除けのためらしいですわ。これがまた、浪花の一奇観として有名やった。
 ちょっと、「砂場」ん中、覗いてみましょか。「す奈場」と書かれたのれんをくぐると、店内は結構広い。ソテツの植樹もあります。各所に置かれた置き座敷に、客が座ってそば食べたはります。個室もあるようです。厨房では店員がそれぞれの持ち場で忙しい。店の奥には「臼部屋」があり、そば粉を挽く臼が十二基据えられてました。さらに奥には「うつぼ蔵」「そば蔵」「むぎ蔵」「醤油蔵」があり、「うつぼ蔵」の隣には小祠が見えてます。
摂津名所図会 砂場いづみや
 現在では、そばは東京、うどんは大阪と言われてますけど、これはそれほど深い歴史のあることではないみたいです。関東で多いそば屋の屋号の一つに「砂場」いうのんがあります。せやけど、この「砂場」、大阪の「砂場」の流れなんですわ。大阪でもそばはよう食べられてました。幕末の大阪の飲食店や食材を販売する店を描いた『花の下影』いう本には、「そば」屋は五店描かれていても「うどん」屋はみあたりません。
屈折式望遠鏡(大阪府指定文化財 大阪歴史博物館蔵)間重富の子、重新所用。オランダ製。
 新町の嬌声を遠くに聞きながら、静かに星を見つめる旦那はんがいてました。新町の南、長堀に面した富田屋町で、質屋を営む十一屋五郎兵衛はんだす。本名を間重富いいまして、幼いころから天文学に興味を持ち、長じてからは西洋流の理論に基づく天文学を修得し、町人ながら幕府の寛政改暦に関わった、すごい人ですわ。
 五郎兵衛はん、自宅に天体観測のための研究室を設け、様々な観測機器を設置して日・月・星を観測したはりました。間家では、重富以降も明治まで、幕府の御用観測を自宅の研究室でしてはって、幕府から貸与されたイギリス製やオランダ製の最新鋭の望遠鏡も使って夜空をながめたはったんです。西船場には、最新鋭の「天文台」があったことになりますな。
 間家だけと違うて、西船場には当代一流の学者がぎょうさんいてました。例えば、漢学の塾「梅花社」。紙問屋を営んでいた伊予屋長兵衛はんが、隠居後白子町に開いた私塾です。長兵衛はんは、またの名を篠崎三島。著名な儒学者でもあったんです。彼の門には多くの若者が集い、また高名な学者もここを訪れました。
 のちに広島藩のお抱えの儒学者にならはる頼春水さんも江戸堀一丁目北側に住んだはりました。『日本外史』の著者などとして有名な頼山陽の父君にあたります。山陽さんもここで生まれたんだす。「春水南軒」と名付けられた春水さんの居は、半ば堀割に突き出してた言いますから、あしだ造りの水都大阪を象徴する光景をなしとったんでしょうな。
 三島はんや春水さんの他にも、「東江」と呼ばれる江戸堀東部にはぎょうさんの文化人が集まりました。それを伝える「先賢景仰碑」は、今でも東江の地(西船場小学校校内)に建ってます。
 西船場から長堀を隔てた南側、堀江もまた、文化人たちの行き交う場でした。ここには当代一の蔵書家・博物学者として名高い酒造家の主人、坪井屋吉右衛門さんが住んだはりました。木村蒹葭堂の名で知られる吉右衛門さんの宅には、全国から有名な学者はんらが訪れたはります。いうたら文化人の交流センターですな。吉右衛門さんの屋敷の跡は、今は大阪市立中央図書館です。時代を超えて文化の交流拠点になってるんです。

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