關一の構想、武田五一の思想
1917年(大正6)、大阪市では都市改良計画調査会が設置され、翌年、東京市に続いて市区改正条例がつくられる。調査会の指導的役割をなしたのは、14年(大正3)から大阪市助役となった關一(1874〜1935)である。關は東京高等商業学校の教授で、都市計画および都市交通学の権威であり、請われてその職に就いた。大正12年、第7代市長となった關は「輝かしい『大大阪市』は愈々けふから實現」、その計画は御堂筋の道路幅を3間から8倍の24間に拡張することと、地下鉄(高速電気軌道)1号線を敷くことであった。この計画によって、大阪の軸線は堺筋から西の御堂筋に移る。關一は大大阪を演出する上で、地下空間のインテリアが重要なことを十分認識していた。そのデザイン監修を武田五一に依頼する。
地下駅のデザイン監修者としてプロフェッサー・アーキテクト武田五一を招いた事は近代大阪のさまざまな都市施設に大きな影響を与えた。大阪においては橋梁(桜乃宮橋、田蓑橋、堂島大橋、渡邊橋、末吉橋)・中之島公園音楽堂・大阪市営新大阪ホテルなどの都市施設を設計する。1920年〜30年代は西洋の様式を理解し、昇華していく過程で一定の成果を上げつつあった。日本近世浮世絵美術と、桂離宮に代表される数寄屋建築の強い影響を受けたヨーロッパのモダニズムは、時を経て里帰りし、ここに具現化する。戦禍がそれを中断させる。戦後、このように都市施設に建築家が腕をふるうのが稀になったのは残念なことである。
70年前の時は今もここに続いている。過去を振り返ってみて文化の輝く大阪の誇りを再び取り戻すために、新たに先人たちの志を読み解き、モダニズム(駅)の中に明日の大阪を探したい。
ゼツェッシオン様式[心斎橋駅]
駅舎の中で最も力を入れた場所と推察される。テーマカラーは道頓堀のネオンのイメージからピンク色が選ばれた。天井のスリーセンターアーチは、20世紀の多くの建築家に影響を与えたウィーン郵便貯金局(オットー・ワグナー設計・1906年)を彷彿とさせる。リズミカルに入る金属のラインは、吊り下げられたシャンデリアのモダンデザインと相まってこの空間を豊かにする。南側に当時としては画期的な2基のエスカレーターが取り付けられ乗客を運ぶ。中階に上がるエスカレーターの脇は、やはりアールデコのアイアンワークで装飾され、パリのエスプリを感じる。改札を抜けると、竣工間もない大丸百貨店(W.M.ヴォーリズ設計・1933年)、その2年後開店する十合(そごう)百貨店(村野藤吾設計・1935年)に地下でつながる。
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