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家族の絆が持つ残酷とやさしさ |
西尾雅 |
永井愛の創る世界にあらためて演劇の力を思う。親子や男女の関係がいとも簡単に壊れる現代を活写して、もう一度自分を見つめる機会を与えてくれる。再婚を決意する親にとまどい反対する息子たちをドタバタで描き笑わせるが、死を前にした老人の孤独や性の問題が浮かび、誰もが迎える老いのせつなさにやがて哀しみがにじむ。大事なのは、それが大上段に問題として提示されるのではなく、さまざまな登場人物に仮託され自然に展開すること。「あんな人いるいる」と感情移入できる人物が観客の目の前に存在すること。彼らの悲喜劇に立ち会い、悩みを共有することで観客はカタルシスを得る。他人に打ち明けるだけで大半の悩みは解決するとか。登場人物に共感するだけで人は救われることもある。演劇の社会的有効性がここにある。 この作品には旧日本軍の戦争犯罪も取り上げられる。けれども、それは声高な主張ではなく、くり返してはならぬ人の愚かさとして象徴的に語られる。親子夫婦関係や戦争犯罪以外にもボランティア活動、フェミニズム、会社人間などさまざまなテーマが盛り込まれている。もちろん、解答は示されない。あくまで観客それぞれが持ち帰り、自分に問いかけるべきもの。演劇は笑いと涙を誘うあくまでもエンタメ。議論を吹きかけるのではなく、登場人物が舞台という鏡に私たちを映し、考えるキッカケを与えてくれるのだ。 久々に実家に帰ったひとり息子・昭夫(平田)は見知らぬ人間がわが家でくつろぐ姿にとまどう。隣家の中国人留学生(小山)とカルチャーセンター講師の荻生(西本)がボランティア作業をしていたのだが、彼らの方が実家になじみ、自分がよそ者扱いなのに不満を抱く。ようやく帰宅した母・福江(加藤)や近隣のボランティア仲間(田岡、橘)から、わが家が留学生と間借り大家をネットする事務局となっていること、元大学教授の荻生と母が恋仲であることを知る。 大手メーカー出世頭の昭夫は、今リストラ首切りの大鉈を振るう立場にある。退職迫られたかつての同僚(酒向)が抗議に押しかける。冷たく跳ね返す昭夫も妻とは離婚寸前。離婚が他人ごとでないのは、荻生の息子夫婦も同じ。結婚を言い出す福江と荻生に息子は大反対だが、荻生はついに福江宅に転がりこむ。義父に戻るよう説得に来た息子の嫁・康子(大西)は、同じ離婚問題を抱える昭夫に共感し、義父を置いてくれるよう気持ちを翻す。かくて、妻の元に帰れない昭夫と荻生2人は2階に間借りし、気まずい同居を始める。 人はときに家族ではなく他人にやさしい。仕事一途で家庭を顧みず妻と疎遠という点で昭夫と荻生の息子は一緒。なのに彼らは自分の配偶者ではなく、似た境遇の異性に共感する。自分の妻とは争うのに昭夫は康子と意気投合する。身近な人間には意固地になって関係を壊し、あふれる甘えが他人に向かう。解雇させられた同僚は困難を自分の妻には言い出せず、福江やボランティア仲間に訴えて甘える。死んだ夫も福江にすべてを話したわけではない。息子の昭夫を強く叱るが、理解しようと影では務める。頑固な職人だった夫が本音を口に出すことはなく、尋ねることは福江や昭夫にはばかられた。自分の気持ちに素直でなかった2人が戻らぬ過去を悔やむ。 戦前は子供好きだった夫が、戦地から戻って以来、わが子にも冷たいことを福江はいぶかる。どうやら戦中の中国で女子供まで虐殺する任務を強いられたらしい。戦争が父子関係を狂わせ、企業のリストラが友情を壊す。同じ仕打ちはやがて自分の身に降りかかる。リストラを先導した昭夫自身が、リストラされる憂き目にあう。親の再婚に反発する息子たちに離婚が控える。彼らは自分もやがて老人となり、再婚する可能性があると考えたことはないのか。老いの孤独と不安を訴える福江と離婚リストラの昭夫は互いの不幸をサカナに酒を酌み交わす。けれども、母子であろうと年齢や性の差は絶対に埋められない。「俺だけは残してくれ」とリストラ撤回を訴える同僚も、自分に降りかかるまでは会社の苦境をどこか他人ごとと思っていたはず。老人の孤独は老いて後にしかわからない。 襲いくる困難にあがく男たち。その不幸は女も同様だが、福江を取り巻くボランティアの女たちはたくましい。離婚を重ね男運のなさを嘆きながらもダメ男を好きになる癖が直らなかったり、初恋の幼なじみ昭夫にまったく気づいてもらえず未だモーションをかけたり、おマヌケな元気がいっぱい。福江に限らず恋愛こそが若さを保つ女の特効薬と知る。急死した荻生の葬式で参列を拒否され、一時は絶望した福江も花火の音に生気を取り戻す。変わらぬ下町の行事、めぐる季節に希望が輝く。
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