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パフォーマー
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会場
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公演日
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ホシノナイソラノナイホシ |
松岡永子 |
a(advanced)とb(basic)の二つのバージョンあり。 まず昼にaプロをみた。ワイアーらしい美意識にあふれた舞台だったが、後半、ラスト近くなって、なんだかまだるっこしいなあ、と思った。話が同じところをグルグルまわっている感じが面白くなかった。各シーンは断片として美しい。役者のテンションも上がってきて、意味なく胸打つものもある。ただ、全体を眺めたときに、なんだか… 話がグルグルまわるのは珍しいことではない。これは本来そういう話なのではないか、などと思いながら、なんとなく楽しめなかったのだ。 夜、bプロをみて、そのわけがわかった気がした。 aプロとbプロとは同じ戯曲で演じられる。台詞の細部までほとんど同じ。そしてこの物語はもともと四年前、bプロの役者二人によるプロデュース公演のために書かれたものだ(改訂あり)。aプロのための物語なら、話自体がもう少し違う形を取っていただろう。 では見た順番とは違うが、物語がはっきり浮かび上がりラストの台詞に収斂していくbプロから。 アキラが安マンションの自室に戻ってくる。と、ナイフを持った女。驚くがよく見ると、結婚し子どももいるはずの姉・ミュウ。 「いきなり来ないでよ」「妹が姉に会うのに心の準備がいるの?」「いるのよ、お姉ちゃんの場合には」 幼いときから思った通りを言い、実行する姉は近所の猫を殺したこともある。アキラはずっと迷惑をこうむってきた。旦那と子どもはほったらかしだという。帰れと言っても帰らない。 エキセントリックな姉と「ふつう」でいようとする妹。 見えないものは存在しない、と言い切る姉。みんな見えないものに気をつけて毎日をやり過ごしているのに、と言う妹。 二人は正反対。表と裏のように、そっくり。 というお話、を自作HPの日記に書きこんだ、とチャットで会話する女。 「お姉さんなんかいたっけ? ほとんどフィクションじゃないの?」 「いいのよ、どうせ誰も見てやしないんだから」 誰も「わたし」なんか見ていない。日記の中のアキラを見てるだけ。 女はチャットの相手に、続きを一緒に考えてよ、と言う。 これは全部ウソの話。でも確かにアキラの話。 マンションは駅に近く、一日中やかましい。夜になってもネオンで部屋は暗くならない。 余計なものを見ないために明かりをつける。余計なものを聞かないために音楽を流す(満員電車、ヘッドフォンで音楽を聞くように)。そんな風にアキラは自分の中に閉じこもっている。 下から床(下の部屋にとっては天井)を突き上げる音がする。やり過ごそうとするアキラに対し、文句を言いに行った姉は「空き室で誰もいなかった」と言う。ではあれは? 存在しないものが立てる音なのか。 大丈夫? とミュウが訊く。ブラックホールのようにすべてを呑みこんでしまっていて、大丈夫? 子どもの頃の思い出。夜、こわい夢から覚めるとカッターナイフを手にしたアキラがいた。何を考えているのかはわからなかったけれど、この子はわたしとは別のシステムで動いているのだということはわかった。 もう一つの思い出。アキラはミュウの大切にしていたぬいぐるみを切り刻んで庭に捨てた。理由は? なかった。何も理由なんかなかった。 そのとき、ミュウはアキラに約束した。どこにいても、あなたの傍へ来て守ってあげる。 約束通り姉は現れる。アキラがどんなに職を変え、引っ越しても。留守中のアキラの部屋で首つり自殺をしていなくなった今も。ミュウは現れる。 これは全部ウソの話。ウソの話として語られるウソ。 アキラの指は、考えるよりも話すよりも速く、ことばを叩き出す。 チャットの文字とはそんなものなのかもしれない。ことばをボールのようにやりとりすることがコミュニケーションなのだ。そのことばの中味には意味はない。太古に輝き、現在やっと地上に届いた(もうそこにはないのかもしれない)星の光と同じように、意味なんかないのだ。 星の光はただの光。意味なんかない。古い光はあたたかいねえ、という台詞もあった。 少し前に流行った歌に、コンピュータスクリーンの文字に触れると(その向こうにいる人が思われて)あたたかい、といった歌詞があったが、メール世代にはそういう感性もあるのだろう。 「ねえ、そこにいる?」とアキラは暗闇にむかって呟く。姉は確かにそこにいる。幽霊が存在しないものだとすれば、存在しないというあり方で、確かにそこにいる。 星はもう空になくても光はここに届く。 前半をモノトーン、後半をわずかに赤ののぞく黒の衣装で統一し、スタイリッシュにきめていたbプロに対して、aプロはオモチャ箱をひっくり返したような色の洪水。部屋自体も散らかっていて足の踏み場もない。衣装はグランジ系(?ファッションにうといので、違うかもしれない。カギ裂きのあるものを重ね着するようなスタイル)。 姉と妹の対照がくっきりしていたbプロに対して、aプロでは二人の違いは際立たない。 舞台上後方にモニター。舞台上で演じられているのとほぼ同じ情景の映像が流れている(鏡の役割もモニターが果たす)。舞台中継をしているわけではないので、もちろん微妙にずれている。そのずれがとても効果的。(ただ、最近は自室の映像を流すサイトもあるそうなのでそれを連想してしまった。劇中のHPは文字情報だけのサイトなのだ、と自分の中で確認しながら見た。) aプロの方がいつものワイアーの演出に近い。 これは全部ウソの話なのだ、というモチーフをヴィジュアル化する演出。インターネット上の虚像としてはaプロの演出の方がリアル(虚像としてリアル、というのは逆説的だが)。 虚と実の距離は限りなく近く、ゆらぎはより激しい。ことばの無意味性は加速する。意味なんかない、という空虚はより先鋭化する。 光はここに届いている。でも、その方向に星があるのかどうかはわからない。信じられない。そもそも星なんかあったのか? 姉なんかいたのか? チャットしている相手の人間は実在するのか? だいたいわたしは本当に「存在」するのか? そんなふうにすべてが記号化、抽象化していく感覚の中では、つじつまのあった物語はむしろ邪魔になる。無意識にでもストーリーを追ってしまうことがまだるっこしい。 謎は深まらないばかり、というのはクロムモリブデンの昔のチラシにあった言葉だが、物語によっては深まり収まるという展開より、表層を表返り裏返り散乱する展開がふさわしいこともあるのだ。たぶん、もっと不条理な、現実と妄想の区別がつかないまま散らかっている物語の方が、この感覚にふさわしい。 aプロのラスト。モニターに文字が映る。 「ねえ、そこにいる?」 声がそれでも人間のものであるのに対してモニターの文字は光の点滅。人は直接存在しない。けれど文字に手を触れることでしか自分や他の人間の存在を確認する方法はない。だから手を触れる。そして。何も確認できない。寂寞とした感覚。その感覚だけは確かだろうか? 本当に自分のものだろうか? 「ホシノナイソラノナイホシ」という題名には、aプロの現代的(あるいは近未来的)な空虚感がふさわしいかもしれない。
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