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遊びに殉じる未来 西尾雅
ヨロキカをひと言で説明すれば「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)。あるいは、ホイジンガが提唱した「ホモ・ルーデンス」(遊戯的人間)集団。生きる意味に万人共通の正解などなく、それを問うこと自体が贅沢と喝破する。飢饉や戦争下で生き抜く人間に哲学はコップ一杯の水ほども助けとはならない。人は絶望した時、崇高な理想よりまだしもギャグや笑いに救われる。むろん、ヨロキカはそれを気づかせるべく活動しているわけではない。楽しむ彼ら自身が現実に迷う私たちに、立ち止まるキッカケとやすらぎをもたらす。

かつて第三舞台はゲームやネットを重要なテーマとしたが、ここまでゲーム感覚が横溢するのはヨロキカが初めて。デジタルゲームの洗礼を受け育った世代ならではの快挙だろう。ロールプレイングゲームや上位レベルへの移行など展開はゲームそのもの。シチュエーション会話劇も人間心理の探求ではなく、スリリングな駆け引きとして使われる。自分たちの芝居もしょせんは遊びと彼らの認識は一貫する。

重要なのは、デジタル発想の彼らが、表現の手段としてアナログの極みともいうべき演劇を選択したこと。演劇が儲からない最大の原因は生ものゆえコピーが困難なこと。CDやDVDで音楽や映像の複製は容易になったが、映像化された演劇には違和感がつきまとう。役者と同じ空気を吸う臨場感こそが芝居の醍醐味。演劇は、表現者と観客が同じ場所、同じ時間を共有するしかない究極のアナログなコミュニケーションである。

チラシのジオラマ写真も凝るが、舞台はそれを立体再現した手造り。実際に人がよじのぼれる木や本水を張った川まで用意され、観客までを森のオアシスにいる気分にさせる。ここまで建て込む物理的な労力に感嘆。CGプログラムを組むデジタル作業も大変だが、肉体労働の結果をリアルに見せつけられるとやはり感動する。そこで繰り広げられるのは、他愛もない森の中でのピクニックの寓話。だらだら続く仲間内の会話にホラーなオチがつく。男優だけの出演とくだらない会話はカクスコに似るが、懐古志向でまだ希望のあったカクスコに比し、ヨロキカに救いはない。

ここは未来の地球、森のオアシス。川が流れ果物も実る絶好のキャンプ地を6名の仲間が発見する。幸運なことに5人泊まれる洞窟までがそこにある。早速そこで暮らすことを決め、仲間内で楽しむ彼らは、やがて川を遡る旅人を迎える。世界を旅する彼の情報を彼らは笑い飛ばし、旅人はその地を離れるが、彼の話が真実と知った時、彼らの遊びも最後を迎える。

デジタルかつアナログの両面性が最も顕著なのは、彼らが寝場所とした洞窟。それは、実は古代の遺物であるテレビ。人口の増えた未来では空間を有効利用するため人類は縮小化され、相対的にテレビが家のように大きくなる。縮小化の副作用で繁殖能力は減退し、女性は存在そのものが珍しく、童貞を性的未経験ではなく女性を見たことがないと誤解する者もいるほど。物語の重要なアイテムであるテレビは箱型の旧式、けっしてプラズマ薄型地上波デジタル受信用などではない。ファミコンでデジタルなゲームに取り組んだ思いが、ここではアナログなオマージュに変換されている。

キャンプの定番、彼らは夜毎恐い話を語り合う。くだらない話で盛り上がるが旅人のもたらす真実=恐い話は頭から信用しようとしない。人類が縮んだという仮説よりも、テレビは大きい方がいいと思考をストップさせてしまう。年金問題をふと連想する。破たんは目に見えているのに誰も直視しない。目先の変更でお茶を濁す。与野党の泥仕合を遠巻きに見つめる国民も同罪。政治に無関心なのではなく、選挙での意思表示は無力とあきらめているかのようだ。

観客席の方向にクマを発見した彼らの驚く顔で暗転し、物語は終わる。糞の発見でクマの存在に気づく機会はあったはずだが、警告を無視して彼らは当然の報いを得る。それは投票を棄権する私たちの暗い未来を予見する。彼らは、しかし私たちよりはまだ救われる。生きることは死ぬまでのひまつぶしに過ぎない。その確信だけは迷いなくあったのだから。「若い女性を見たい」というささやかな希望こそ叶わなかったが、仲間内のゲームに興じた彼らは進んで「アカルイ終末」に殉じたといえる。

キーワード
■コメディ ■終末
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