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生と死、連鎖の破たんと迷い 西尾雅
大阪のビジュアル、ナンセンス、アバンギャルド系演劇を代表するクロムモリブデン、デス電所、WI'REの3劇団が、がっちり組んだスペシャル企画。脚本の竹内、演出の青木、美術のサカイの分担、そして3劇団3役者ずつ出演のバランスがいい。とりわけ、久々に役者パワー全開のサカイの飛び道具的な登場が、強いアクセントを生む。

植物であれ動物であれ他の生命を糧として生きるしかない食物連鎖の営み。死を踏み台にして成り立つ生命の仕組み。種の繁栄のために編み出された性の分離そして交わり。他の生命を奪い、求めることで存在し、進化し続ける生命の宿業。交配と殺戮と摂取が生命を根本から支えている。愛と暴力は生きとし生けるものの宿命といえるのかもしれない。

食物連鎖と輪廻、つまり生命の再生が変わらぬ竹内のテーマ、デス電所では物語が複雑にピース分解され、次々展開される。エロでブラックなギャグに彩られた各ピースが再構成され、最後に全体像がわかる仕掛けだが、今回はひとり数役切替での複数の物語を廃し、固定した役のまま時系列どおりに進行する。いっけんシンプルな構成だが、謎は今回も次々くり出されサスペンスな展開はあきさせることがない。

息もつかせぬスピード展開とギャグのまったり感の落差も、本来のデス電所の魅力。最近のクロムはスタイリッシュにじっくり見せる傾向になり、竹内の強烈な毒を青木演出は大人感覚でリファイン、ビジュアルで怖さを増幅する。かつてのクロムのパンクでアートで猥雑な面を、今継承するのがクロムに客演の多かったサカイ。動物ぬいぐるみの不気味可愛さや回転カッターと緊縛鎖のメタリックな冷たさに独特のキッチュ感が光る。

豚や羊さまざまな動物を飼育する研究所。研究と称するには乱雑過ぎる室内で今日も騒ぎが持ち上がる。飼育動物にペットと間違える愛情を注ぎ、飼育頭数の管理もできず、と殺はリーダーにまかせきり、けれど仲間内で暴力は横行。研究というが誰も評価しないか、安楽死などあぶないかのどちらか。ここではお祭騒ぎでゲームに興じモラトリアムな時間が過ぎるだけ。暴力もいわば身内の甘え、彼らはひたすら共同体の無為を維持するために存在する。

が、彼らの安息は破られる、行方不明の姉を探しに来た妹・金子(酒井)の訪問によって。経営と研究を主導した姉が研究所から失踪して、実は半年以上が経つ。父母の相次ぐ死によって研究所を相続した金子姉妹の妹はようやく失踪に気づき、姉の代行で研究所を率いる木目(信国)から実態を聞く。研究とは名ばかり、ナンセンスなゲームやぬいぐるみ芝居の稽古に夢中な一同。高揚は見せかけで現実逃避の虚勢を張る。研究所内には無気力と狂気が渦巻き、両手を鎖で縛られ拘束される彼女には、姉が既に死んだとしか思えない。失踪に沈黙するのは現実を認めたくないから。と殺に手を下せないのも死と向き合えないからなのだ。

生は有限であり、命を犠牲にして次の命が成り立つ。その事実に目をつぶる彼らに研究飼育する資格などない。殺生した命をいただく(食前の挨拶「いただきます」の語源だ)ことによって人は生きる。その上にしょせん遊びに過ぎないかもしれぬ人生も存在する。けれど、殺生を遊びとすることは許されない。チェチェン解放勢力(を称する者)が北オセアチアで起こした学校占拠のテロに怒りと悲しみを禁じえないのは、犯人が人質と自身の生命をもて遊ぶからに他ならない。

死と向き合い、と殺に手を下すこと。生命が大切なのとそれは同義。死を隠蔽する社会こそが不健全。解体済の肉がスーパーに並ぶ現代で、命が粗末にされるのは当然かもしれない。必然の死を卑しめる体質が職業の貴賤や差別につながる。そして、物語でも差別者が乱入し、新たな展開を見せる。金子を妾の子と蔑称する兄・百軒(サカイ)が現れ、研究所を破壊にかかる。百軒の暴力は、ぶつけられた石で頭の出血回数を競う仲間内のじゃれあいではなく、存在の全否定だ。そもそも暴力は意識下の悪意や差別が実体化したもの。つまり百軒は、再生のための死ではなく、甦ることのない死、永劫の無を象徴する。

だが、反撃を受けた百軒の方が逆に死ぬ。木目は百軒の死体を解体し、平然と食卓に並べる。屠られた生命は食料となって新たな命に宿る。それが祝祭であると殺の原則、ルールどおり人肉を食した全員が、次の瞬間死を迎える。安楽死研究用の毒がひそかに混ぜられていたのだ。食べ遅れたため、ただひとり助かった梶尾(板倉)。彼も自分の研究材料がいつ混入されたか知らなかったのだが、本気で死を願っていたとは思えない彼だけが死をまぬがれたのは何とも皮肉。死んだと思われた金子姉が海外で生きているどんでん返しも竹内らしいシュールさだ。(東京というユニット名自体、大阪を自負する裏返し)

研究と称するお祭もいつまでもは続かない。芝居に幕が下りるように食物連鎖もやがて破たんする。人肉屍食は生命の永久回帰を約さず、生命をもて遊んだ罰となってわが身に降りかかる。彼らは戦争や自爆テロをくり返し、自ら生み出した核や細菌で滅びかねない人類を戯画にして映す。しかし、パンドラの箱に最期に残った逸話のようにここでも希望が残される。金子姉の脚本では死後天へ昇ると予言される赤い風船。人がめざすべきは食物連鎖の果て、生命の輪廻という聖なる高みなのか。新たな生命となって蘇る祝祭はそこで開かれるのかもしれない。

それでも苦悩がすべて浄化されるとは思えない。研究所では金子姉が考えた「ドリーはどこだ」というゲームが流行する。連想の言葉遊びをしながら移動と停止をくり返し、最後に点数で優劣を決める。けれど連想や点数の基準はあいまいでナンセンス、仲間以外にけっして理解できない。そのデタラメぶりはDNAの無数の組合せに似る。進化は正解のない無限の組合せ、その試行錯誤に過ぎない。ドリーとは遺伝子操作で誕生したクローン羊の名前なのか。しょせん遺伝子の箱舟に過ぎないと揶揄される私たちの生命。再生連鎖の途中、私たちは永劫の回帰の果てに、同じ遺伝子を持つドリーをなお求めるのか。それは別の運命をたどった「もうひとりの自分」「最も近い他人」に他ならない。本当の自分に出会うため人は永遠に迷いの旅を続ける。


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■シュール ■終末 ■企画プロデュース
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