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パフォーマー
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会場
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公演日
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今どき口語体で蘇る古典 |
西尾雅 |
かつて何人もの演劇人が傾倒し舞台化したチェーホフ。日本の演劇にさまざまな影響を与え、知らぬ者ない「三人姉妹」の書き換えに挑戦するなかた茜とハルキチハルのプレッシャーを感じさせない自然体が愉快。少し前の日本、手塚治虫一家をモデルにしたアイディアも秀逸。手塚に三人の娘がいたとの設定、偉大な父亡き後、東京を離れ田舎に引きこもった家族の鬱屈を描く。 長男コウスケ(奈須)のモデルが手塚眞、親の七光りで監督の道に進むが才能なく、高校同級の秘書が影で支える。姉妹から総すかんのサナエ(向田)と結婚して後は姉妹の間で四面楚歌、遺産も株の失敗で減り続け、父原作の映画化も資金難で挫折寸前。右肩下がりの一家を背景に映画配給会社社長や俳優らが複雑に入り組む。長女(たなか)は仕事熱心のあまり独身、嫁いだ次女(ハルキチ)は出演男優(ともさか)と不倫中、三女(なかた)をめぐっては社長(寺本)とモデル(斉藤)の男2人が争う。 設定は原作のままだが、長女が芸大で教え、三女が元女性読者モデルと今風の味付け。マンガ作品やファッションブランドが会話に次々登場してキャラを肉付けする。あらためて現代は記号の時代、着ているブランドや好きなマンガで性格もライフスタイルも判別されると知る。瞬時に選別される現代。表面の軽さが逆に内面の苦悩をうかがわせる、まぶしい光の陰にも似て。 爛熟から退廃へ向かう革命前夜のロシアの世相と華やかなバブルを経て没落しつつある一家のアンニュイな雰囲気はとても近しい。絶頂を知った後、零落するしかないと悟る不幸。蕩尽する財産を持っていたり、芸術の才に秀でるわけでもない凡人には遠い世界。けれど、元読者モデルの三女は過去の栄光が忘れられず追憶にすがる。 原作と大きく異なるのが三女をめぐる決闘の結末。東京へ戻りたいだけの理由で彼女は社長の婚約を受け入れる。むろん収まらないのは対抗馬のストーカー気味モデル男。原作どおりだと決闘の末、社長の死で終わるはず。ところが、本作では彼女の愛を確かめるため2人で仕組んだ芝居とどんでん返しされる。生命を賭けきれない男の情けなさと男を持て遊ぶ女のずるさが悲喜劇を強調する。 あるいは次女と男優、既婚者同士の愛。どちらも結婚相手に問題があり、不倫ながら2人は純愛。わずかに手を触れる仕草がせつない。けれども、自殺未遂をくり返す妻のSOSが気がかりな男はケータイの電源を切ることができない。束縛と制限を受ける愛は本物になりえない。悲しみ苦しみながら彼らは破局を迎える。 ラッシュフィルムの光と陰から隠された想いがしだいに漏れる。姉妹から嫌われるサナエの強がりも脅えゆえの虚勢。偉大な父も住み込みのお手伝いがゴーストライターとして支えていたとわかる、無能のコウスケを秘書が支えたように。表面に出ない彼女らの無念を暗転時の映像が拾う。役者の登場シーンと静かな映像、その落差は現実と心の底の想いの差を象徴する。 軽い会話に隠される苦悩。何が大切で誰を愛するか確信がもてない私という存在。傷つくことを恐れ言葉を軽んじる私たちに不安は容赦なく襲う。認識できない何かを求め私たちは「それがわかったらそれがわかったらねえ」と呪文をくり返す。それが解ける日は永遠に来ないと知りつつ。
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