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誰がピローマンか 栂井理依

 物語を書くことだけを生きがいに、知能障害の兄カトリアン(山崎)と暮らすミハエル(高橋)。そこへ、ある日、悪い知らせがやってきた。

 なんと、カトリアンがミハエルの物語の中にあるとおり、子どもたちを殺していたというのだ。確かに、ミハエルの書く物語の多くは、子どもたちが残虐な殺され方をするものばかりだった。

  その背景には、この兄弟の哀しい過去がある。利己的な両親の子育て実験のために、暴力を振るわれ、知能障害を残すことになった兄と、誉められて物語を書く才能をのばした弟。事実を知った弟は、両親を殺し、兄と共に生きることを選んだのだ・・・・。

 児童虐待・殺人は、今や、日本社会でも溢れている。そして、それらの行為が、自らも虐待をうけて育ったトラウマから引き起こされるものだという認識も、よく知られていることだ。
 しかし、カトリアンとミハエルを取り調べる刑事トゥポルスキ(近藤)、アリエル(中山)自身が、息子を失ったり虐待を受けたりという過去を抱えている。トラウマがあれば、犯した罪が肯定されるわけではない。

 知能障害があるとはいえ、子どもの心のまま大人になった純粋なカトリアンが、なぜ、子どもたちを殺したのか。
 その答えは、そのままミハエルの書いた「ピローマン」という物語へ重ねられる。ピローマンは、将来、つらいことばかりの不幸な人生を送ることがわかっている子どもたちに、自殺を勧めてまわるヒーローだ。両親を悲しませないように、彼らは水難事故や交通事故に見せかけて、自ら命を絶っていく。そして、たくさんの役目を果たしたピローマンも、不幸であることに気づき、自殺を選ぶという、そんなお話。
 子どもたちを虐殺したカトリアンに、皮肉なまでに罪の意識はない。むしろ、そんな物語を書き続けたミハエルが悪い、と無邪気に責任をおしつけてくる。ミハエルは、哀しく辛い少年時代を疎んでいた自分が、はからずもカトリアンを媒介に、「ピローマン」になってしまっていたことに気づく。純粋なうちに、まだそれほど不幸になっていないうちに、この世から消えてしまったほうが、子どもたちのためだ、と。

 私がこの作品を観たのは、奈良で女子児童が何者かに殺害され、捨てられるという悲惨な事件が起こった数日後だった。犯人像についてさまざまな予想がとびかっていた頃だ。
 児童虐待を引き起こす現代社会ならではの精神的抑圧、そして次の児童虐待を引き起こす哀しい輪廻。それを殊更に取り上げるだけのメディアと、心ない学識人たちの欺瞞。そんな煩雑な社会の一方で、いつの時代もけっして変わらないだろうと思われる、利己的で滑稽で哀しい人間の本質・・・そんなあれこれが、警察でのミハエルの取調べ、独房でのミハエルとカトリアン・・・互いに、相手と自分の本心を探っているような静かな会話、物語の朗読で構成される淡々とした舞台とともに、暴かれていく。

 ミハエルは、カトリアンを殺して、すべての罪をかぶり、銃殺刑に処される。くどいほどの悲劇。舞台を通して、明るいエピソードは一切ない。あるとすれば、カトリアンがある物語を真似して殺したと思っていた少女が、物語の取り違えで、豚小屋の中で緑のペンキをかぶって発見されたこと、ミハエルが願ったどおり、アリエルによって物語の原稿がミハエルの死後も保管されることになったこと、くらいだ。しかし、それにせよ、他の不幸を際立たせるための「苦笑い」にしかならない。
 今回、マクドナー作品の演出が二作目となる長塚圭史が、阿佐ヶ谷スパイダースで上演する作品も、いつもそうだ。ストーリーは救いのない悲劇の連続で、登場人物たちは、その渦の中で自分なりの立ち位置を見つけて、どうにかこうにか生息している。そして、それがもはや劇世界の中だけではないこと、どんな殺人も暴力も日常にごろごろしていることを、私たちは知っている。
 でも、くどいほどの悲劇を通じてしか、知りえないひとの姿がある。見えないこころの形がある。数多くの子どもたちの死に立ち会ったピローマンのように。

※大阪での公演詳細
2004年11月27日  13:00開演
シアタードラマシティにて

キーワード
■家族 ■児童虐待
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