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一昔 —— 十年とはどのくらいの長さなのだろう 松岡永子
 題名からもわかるように、震災から十年がたった今、を題材にした物語だ。
 特別新しい仕掛けがあるわけではない。お話としては良くあるタイプだといってもいい。
それでも、率直で素直なところは感動を誘う。それは今の自分から目をそむけないでいようとする真面目さからくるものだろう。

 洒落たカフェのような明るい空間。それぞれ思い思いのことをしている。お菓子を食べたり、千羽鶴を折ったり、ダッシュの練習、時計の修理…。ここは死者たちの世界。この部屋にいるのは震災で死んだ者たちで、彼らは十年間眠りつづけた後、命日の一週間前に目覚める(だから即死しなかった者は何日か遅れて部屋にやってくる)。目覚めている間に一番やりたいことをやり、その一週間が終わるとまた十年眠ることになる。
 現世の人間が自分を思い出すと、部屋の中央にある水盤からその人間の様子を見ることができる。思い出されたことは、自分のランプが点ることで知らされる。

 いつもは記憶として眠っている彼らにとっては、目覚めているときの姿も名も借りもので、現世でのものとは違うらしい。

 彼らの現在の状態は着衣の色に表れると説明される。現状を受け容れている者ほど服の色が薄くなるという。服として着ているわけではなく、彼ら自身の姿、というわけだろう。
 残してきた子どもは生きている人たちの間でちゃんと成長していると信じ、一週間やりたいことを尋ねてもらえてその準備を整えてもらえるのはありがたい、生きている人たちに思い出してもらえるのはありがたい、と言う女性の服は白い。逆に言えば、彼女が強がりを言っているのではないということも証明されるわけだ。
 対して、全能の神の愛と人知を越えた計らいを説く女性の服はピンクだ。
  <赤系統の色は怒り、青系統の色は悲しみに近い感情を表しているように思った。
   また、関心が自分に向けられるとき(どうしてわたしが死ななくてはならない
   の、など)赤い感情を、関心を他人に寄せるとき(残してきた母親への心配や、
   新しい恋人といる夫、など)には青い感情を感じるようだとも思った。>
 感情的に受け容れられないからこそ、神の愛を声高に説き、他者への配慮を形で示したいと思っているのだろう。

 その中で、真っ黒な服を着ているハルは身体も完全ではない。自分が死んだという事実自体を受け容れられない者たちはここまで辿り着けず、現世との間で彷徨っている。そこにハルは半身を置いてきてしまっていた。
 ほとんど口もきかず、心を閉ざしたままのハルが昔の元気を取り戻すことが、一緒にいる兄の望みだ。彼らが一週間やり続けるのは、(おそらくスポーツ選手だったろう)ハルのダッシュ練習だ。

 それぞれの人がそれぞれの事情とそれぞれの想いを抱えている。それは生きている者の世界と変わらない。一週間をともに過ごすうちに、少しずつ互いのことを語り合い、知り合っていく。
 人々との関わり合いの中で、前向きになろうと決意したハルは失っていた半身と出会う。
壊れていた時計は動き出す。
「その時間」が来る。すべての人のランプがつく。すべての死者が思い出される。追悼の式が始まったのだ。
 水盤に映る追悼の明かりを見ながら口々に呟く。
「きれいだ」
「わたしたちが眠っていた十年も、ずっとこんなふうにしてくれてたんだねえ」
 生者も死者もすべての人が安らかに、幸せであればいいと願う。一週間をやり終えた人たちはまた眠りへと戻っていく。

 劇中で、人間は二度死ぬのだと語られる。
一度目は肉体の死。二度目の死はあらゆる人の記憶から消えてしまうこと。
 誰が死んでも時間は立ち止まらない。時間はいつも生者のものだ。
それは残酷なことだろう。もちろん死者にとって。そして生きつづけなくてはならない者にとっても。日々の忙しさの中で忘れていく自分に気づいたときの、ひやりとした感覚。

 死者たちは、思い出されたいと望んでいるのだろうか。
生きていても人間だし、死んでいても人間だから同じように考えるのかもしれない。それとも死んでしまえば何も望まないのかもしれない。それは生きている者にはわからない。
 わかっているのは、生きている者は思い出したいということ。失ってしまった大切な人を、思い出すこともできなくなってしまう、手に触れないだけでなく心でも触れられなくなる、と考えて辛いのは生きている者の方なのだ。
 親しい人の死を受け容れられないのも生きている者だし、なぜ死んだのが自分でなくあの人たちだったのかを考えてしまうのも生き残った者だ。

仕方がないことだ、と頭でわかっていても身体がついていかない。劇中の台詞通りだろう。
 それでも、一歩ずつでも前に進まなくてはならない、と自分に言いきかせる。「今」を受け容れられるようになろう、と自分に言いきかせる。そんなふうにして日々を送ってきた人もいることだろう。

 これは、死者のための、というよりも、十年間を生きてきた者のための鎮魂の物語だ。

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