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金色夜叉<貫一・お宮篇> 松岡永子
 前回の<貫一篇>をみて、尾崎紅葉の小説『金色夜叉』を読もうかとも思ったが、結局読めなかった。だから原作にどんなエピソードがあるのか、わたしはまったく知らない。
 知っているのは、たぶん多くの人が知っているであろう「熱海の海岸」の場面だけだ。
 愛し合っていると思っていたお宮が富山という大金持ちと結婚する、と知った貫一はお宮を突き放す。
で、あの有名な台詞。
「来年の今月今夜のこの月を、きっと僕の涙で曇らせてみせる」
金のために愛を失ったと思った貫一は、みずから金の鬼(金色夜叉)となって復讐することを誓う…

 遊劇体の『金色夜叉』は小説のストーリーを追うわけではない。書きかえるわけでもない。小説のシーンのいくつかをカットアップする形で作られている。
 貫一とお宮以外の役者はすべて黒衣で、コロスを兼ねる。出入り等、役者の動きも様式化されている。美術も比較的抽象的。暗転のしかたもきっぱりしている。
 黒い壁面に掛けられたいくつかの色鮮やかな絵をみるように、各シーンをみることになる。

 波の音が響く薄明かりの中、呟くようなコロスの声が聞こえ始める。その言葉は劇中何度も繰り返され、お宮から貫一への謝罪の手紙なのだとわかってくる。

 具象的なシーンは、貫一が心中カップルを助けるところから始まる。女は芸者で、嫌な客にむりやり落籍(ひか)されそうになっている。男は彼女のために使い込みをしている。金のために添いとげられなくなった二人は愛を選んで心中しようとした、と打ち明けられ、その「嫌な客」がお宮の夫・富山だと聞いた貫一は、金は自分が都合する、と宣言する。

 お宮の結婚生活は不幸である。まさに貴婦人としてセレブな生活をしながら鬱々として楽しまず、身体も弱って臥しがちになっている。愛のない結婚は不幸だ、と言った貫一の言葉が改めて思い当たる。

 お宮は謝罪の言葉を書きつづけ、手紙を送られた貫一はけれど決して読もうとしない。

 お宮はどうして富山と結婚したのだろうか。
 親にぜひと勧められたのではない。金に困っていたわけでもない。(特権階級とまではいかなくても、お宮の実家はそれなりに裕福だ)どうして結婚したのか、現代の感覚で考えると不合理としか言いようがない。魔が差したのだろうか。一時の気の迷いだったのだろうか。

 そんな結婚の相手・富山は、現代的な感覚でいえばむしろ被害者だが、劇中では、飾り物として美しい妻を欲しがった男、として描かれる。富山は白百合の花を鳥籠に入れて高いところに吊す。

 思いは何度も「熱海の海岸」に戻ってくる。
有名なやりとりは、コロスによって戯画的に演じられ、また古いラジオから流れてくるような声によって表される。(細部をリアルに演じてはもう、現代ではほんとうらしく感じられないのだ)
 貫一が高く吊された鳥籠へ、白百合を閉じ込めた鳥籠へと手を差しのべる。と。
 鳥籠が落ちる。貫一の手をすり抜け、そのまま落下する。取り返しというのはつかないものだ、といったことを口にして貫一は去る。
 月に蒼ざめた海岸にお宮はひとり立ちつくす。
「熱海の海岸」での決心とその結果を、お宮は悔い続け、貫一は悔いることを拒んでいる。

 <貫一篇>よりも今回の<貫一・お宮篇>の方が、求心力の強さを感じる。それは貫一とお宮の関係に、人間関係が絞られているからだろう。貫一の他の人間関係——友人、好意を寄せてくる同業(金貸し)の女社長、お宮の父——といったものは今回は出てこない。

——『金色夜叉』の凄味は、間貫一の人生の捨て方の無謀さにある。宮との愛が断ち切られたことで、学業や恩人、友人だけでなく、温情をすべて捨て去り、守銭奴となる。このすさまじいエネルギーの変換は、一国家が開戦へと向かう推進力と似ていなくもない。私はこの小説に、戦争については一切触れられていないにもかかわらず、戦争の幻を見る。——
 演出家の言葉だ。自棄、というコンセプトには確かに惹かれるものがある。
 ただわたしは、引き合いに出されているギリシア悲劇との類似性は感じない。比較してみると、日本人はどうしてこんなに線が細くてウエットで曖昧なのだろう、と感じてしまうからだ。
 たとえば<貫一篇>に、貫一が訪ねてきたお宮の父(貫一の育ての親でもある)と会おうとしないシーンがあった。自分が望んだ通りの人非人になったのなら、むしろ平気で会えるはずだ。正面から向き合っても心動かさない(ふりができる)だろう。そうではないことを貫一は自覚している。恨みにしろ思慕にしろ憎しみにしろ、強い情緒があり、それを隠し通すこともできない。貫一は少しも情を捨ててなどいない。まあ、もともと日本の「夜叉」は、大陸的な魔や怪のようにドライなものではなく情緒的なのかもしれないが。

 ただ、貫一の人生の投げ捨て方が激烈で非常識であるのは確かだ。親は既になく財産は未だないとはいえ、学歴貴族として当然その先に見えていたエリートの道を捨て、人々の賞賛や名誉を捨て、すべての知己を捨て、賤視されている職業を選んだ。たったひとりの女のためにすべてを捨てる。常識からみれば狂気の沙汰だろう(夜叉、で連想すれば、ひとりの女のためにすべてを捨てた男はもうひとりいる。尾崎紅葉の弟子・泉鏡花の『夜叉ヶ池』の主人公のひとり萩原晃は、百合と暮らすために、学業も学歴も華族という特権身分も家族も友人も、すべてを捨てて寒村の鐘楼守となった)。
 それはあり得ない夢物語だから物語として魅力的だったのだろうか。それとも、男子たるもの決意するときにはそのくらいの覚悟を持つものだという理念からだろうか。

 多くの人が知っている「熱海の海岸」の場面は、物語のクライマックスではない。そこから物語が始まる。そこでの魔が差したようなできごとを起点として、貫一もお宮も、自分にふさわしくないと思われる世界、居心地の悪い場所に身を置くことになる。お宮は愛のない結婚生活に、貫一は非情な高利貸しの仕事に。
 そしてこの舞台では、物語はそこに帰ってくる。
 「熱海の海岸」のできごとを、その時の決断を、お宮は後悔しつづけている。後悔に捉えられて、どこにも行けない。貫一は後悔などしないと決意している。後悔から目を逸らしつづけている。だから、やはりどこにも行けない。貫一とお宮は、鏡に映したように、よく似た一対の人物だと思う。

 舞台美術にふれて、よるべない舟のイメージ、と演出家は言っていた。わたしには砂漠のイメージが浮かんだ。バックに見える大きな月に、月の砂漠、という言葉を連想したからだろう。それは月に照らされ王子さまとお姫さまが渡っていくロマンチックな砂漠ではない。寒々しく荒涼とした月面の海。上空にぽつりと水をたたえた青い星が浮かんでいる。

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