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合わせ鏡の増殖・宝塚版の進化 西尾雅
彩輝直の退団公演、男役・瀬奈じゅんのエリザベート役など話題先行の宝塚版。最後の5組目とあって各組比較がかまびすしい。むろん、各組の持ち味、キャスティング違いの差は大きいが、宝塚版ならではの変わらなさこそ重要。「ベルばら」と同じ型の継承は賞賛すべきマンネリズム。前回の花組は小池が多忙なため(「モーツァルト!」初演と重なる)演出は中村一徳が請け負うが、今回と驚くほど変わっていない。東宝版の初演と再演が同じ小池演出ながら、装置・振付を大きく変更したため印象を一新したのと対照的。各組の長所を吸収した宝塚ならではの熟成を堪能できる。

宝塚版のテーマは合わせ鏡。エリザベートと息子ルドルフ、黄泉の帝王トートの互いの映し絵としての存在。実直な皇帝フランツ(初風緑)は、自由奔放で野生味あふれるシシィことエリザベートが、自分と対極であるゆえ惹かれる。いわばプラスとマイナスの引力。男女の陰陽和合は、幸福の印、もし彼らが一般庶民であったならば。衰退に向かうハプスブルク帝国の建て直しを迫られる立場が、その幸せを奪う。何不自由ない権力と財産に恵まれたゆえの不幸。恋の願いはかなわず2人は永遠のすれ違いに終わる。

エリザベートの生涯は華やかながら苦しみの連続、暗殺者の手でようやく死の床に就く。けれど突然の死は、彼女が待ち望んだ安らぎ。自殺を罪とするクリスチャンは自分で死ぬわけにいかない。獄中自殺したゆえ煉獄で今も苦しむエリザベート殺害犯ルキーニ(霧矢大夢)が狂言回しとなって殺害動機を糾す。エリザベートが果たせない自殺をやってのけたルキーニは彼女の尊敬に値する存在。被告みずからの手で進行する裁判劇ミュージカルの裏づけがここにある。

ルキーニは、エリザベートが密かに望む死の手配師でもある。物語の案内役、そしてエリザベートとトート(彩輝)の仲人役として2人を導く。テロリストと被害者という敵対関係に見えて、実はトートの下僕として恋を仲介支援する。つまり黄泉の帝王との仲を取り持つ黒いキューピット。そしてルキーニもまたエリザベートの崇拝者、一連の行動は屈折した彼自身の愛にも思える。そのキュートさが今公演イチの見どころ、霧矢の見せどころだ。

霧矢ルキーニが殺人者に見えないという大方の批判は、おそらく当たっている。テロリストの狂気を犠牲にして強調したのは、本作が愛の物語だということ。無政府主義者ルキーニは信念に殉じ殺人を決行する。皇后の立場にありながら旧弊な夫に追随しないエリザベートこそ、反ハプスブルクの旗頭、孤独な無政府主義者かもしれない。国家を信じない2つの魂が引き寄せられる、凶器を介して。テロリストが皇后に突きつけたのはナイフ(史実ではヤスリ)ではなく叶わぬ愛の刃だ。

姑の皇太后ゾフィ(美々杏里)からすれば、格下の田舎娘バイエルン公女シシィもルキーニには高嶺の花。ルキーニは彼女との出会いを奇蹟、神ならぬトートの仕業と思う。トートは彼女が育て畏怖し願う死の人格化、つまりは彼女自身の影。ルキーニは実体を与えられ死の呪文を唱える導師、ナイフは願いをかなえる魔法のランプなのだ。

トートは、黄泉へ連れ去るはずの少女シシィにひと目惚れ、仕事であることも忘れて生き返らせてしまう。お仕着せのお見合い相手・姉ヘレネ(花瀬みずか)を選ばずシシィにひと目惚れしたフランツはトートのライバルだが、この点では瓜2つ、彼らもまた合わせ鏡といえる。シシィと出会うや魂奪われる彩輝の表情。揺れる心情を従えたトートダンサーが踊る中、抑えた佇まいで愛の獲得を誓う。闇の中から見つめている。ストーカーと間違われかねないトートの決意。むろん違いは弱みにつけこまない騎士道精神にある。

エリザベートの寝室で拒絶され、怒りと悔しさ混じえた未練を抑え、強がり別れる扉の外。敗北に打ちのめされ、けれどまだまだ勝負は終わらないと立ち直る。すぐにほくそ笑み策をめぐらす彩輝の一連の変化が見逃せない。いっさい台詞を発しないまま型に息を吹き込む。培った男役のすべてをここで見せる。歌舞伎とは男女真逆だが異性を演じる型の極み、伝統に共通の技が光る。

振り返れば、彩輝は月組に配属後、星組に組替えなった後、新人公演でトートを演じる。専科に移り宙組「ベルばら」で水夏希と役替りでオスカルとアンドレを演じ、星組「プラハの春」に出演。月組「シニョール・ドンファン」「薔薇の封印」の後「飛鳥夕映え」で月組トップに就任。その各組遍歴の経験が生きる。今回で「エリザベート」は全5組公演を達成、宝塚の独参湯となったのとそれは同義。彩輝に5組トート役の集大成の意味もある。型に役を入れる彩輝は新人公演時の本役星組・麻路さきに最も似るが、直近の花組・春野寿美礼のわかりやすいトート像をも継承、若々しくしなやかな宙組・姿月あさとにも似る。

彩輝最大の得意は両性具有のあやしさにある。女性が男性を演じる宝塚にあってもバウホール公演「エピファニー」や「熱帯夜話」で見せたレトロ和装麗人の中性的な蠱惑は他を圧す。歌・芝居・ダンスは当然、さらに何かに秀でて華がある。それが男役トップの最低条件。彩輝トップ昇格をいぶかしく思ったファンは正直多い(白状すれば私もそう)が、本作で持ち味が大きく開花する。

ここに本来は男役そして次トップの瀬奈じゅんが相手役を務める意味もある。女性以上の女性らしさが求められる娘役ではなく、男の強さを合わせ持つ娘役。美貌ながら孤独を抱える皇后に、当初奇策と思われたキャスティングは、結果何とふさわしかったことだろう。思えば前回花組のゾフィー役は組長そして男役の夏美ようを起用して強い皇太后を創る。けれど、ゾフィーを超える強い存在が実はエリザベート。皇后に芯の強さを持つ男役を抜擢しない理由はない。

宝塚永遠のテーマは男と女の愛。レビュー最後のトップコンビのデュエットはお約束。両性具有のトートと強いエリザベートを配すれば現代的なカップルが誕生する。男女のくくりを越え、内なる異性を見つめるは時代の趨勢。お互いが違い、ゆえに引き合い、反発するプラスマイナスの男女関係は過去の遺物。今は自分の中の異性を見据える。男女とも体内に男性ホルモン、女性ホルモン両方を持つのだから。

ベターハーフの性を求めず、内なる異性を知る。それは孤独を自覚すること。ネットで賛同者を募る集団自殺に違和感を覚えるのは、死ぬ時までツルむかということ。本来死は個人で引き受ける運命、究極の孤独。妻は夫ではなく、所有物でもなく、皇后といえど魂は個人のものと認識するエリザベートは既に現代の感性を備えている。人が選び取る最後の選択、死を自分の望む形でと願う彼女。生の総決算、死に際にその人が表現される。死は己の相似形であり、確かに最期のダンスを託すべき相手だ。

両性具有の今コンビは、2人が互いの映し絵であることを強調する。鏡の間で開かれる華やかな宮廷の結婚披露宴が、トートが支配する暗黒世界に一瞬で転換。現実と虚構がハーフミラーで鮮やかにひっくり返される。合わせ鏡で相対するのはトートとフランツ、エリザベートとトートだけでなくエリザベートと息子ルドルフ(大空祐飛)もそう。性格や宮廷内の孤独な立場が似る母子2人はけれど皇后と皇太子としてはすれ違う。皇帝の妻と子もしょせん国家の駒に変わりはない。母の愛と助けを求めるルドルフにエリザベートは十分応えられない。自殺したルドルフの絶望は彼女にも痛いほどわかるのであり、息子を見捨てた負い目がさらに彼女を苦しめる。

分身である鏡を捨てた報いは、いつか自分に還る。自分もまた捨てられる運命が待つ。息子に救いの手を伸ばさなかったのは私。誰より救いを待っていたのは自分だったはずなのに。そう、手を伸ばしていたのは息子ではなく自分。見捨てられ、見捨てたエリザベートの2重の苦しみ。けれど、合わせ鏡はまたひとつになる。死が彼女のもうひとつの鏡。死が寄り添えば彼女の苦しみ悩みはすべて解き放たれる。

思えばトートは、死は逃げ場でも救いでもないと何度も強調した。「私を愛して欲しい」それがトートの願い。逃げるでも嫌うでもない愛の対象としての死。鏡の向こうに映るのは、死を受け入れる自分。生きて来た証、人生のすべて。運命に翻弄され生き抜いた彼女は、その時本当の癒しを得る。
無政府主義者のルキーニは、テロの対象に最もふさわしくない相手を選んでしまった。古い政治体制を憎むエリザベートをそうと知らず襲ったのだから。加害者と被害者、2人の運命が殺害現場で交差する。見合いの席でフランツが姉でなくエリザベートを指名したように、ルキーニも彼女を選択してしまう。彼らもまた合わせ鏡の同志なのだ。

死の許可をトートから賜り、狂喜する霧矢ルキーニ。ルキーニはエリザベートの死の瞬間に彼女と出会い、死から遡り一生を巻き戻す。長い裁判のために。合わせ鏡に映る無限の反射、そこに映し出された人々を語るために。

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