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「噺劇」をみる 松岡永子
 ミナミにあるテーマパーク「道頓堀極楽商店街」の中、いかにも「芝居小屋」の風情に作ってある一画「ゑびす座」。落語にも似合う場所だが、今回は「噺劇」を見に行った。
「噺劇」は新しいジャンル創設の試みだ、とは九雀さんの弁。
 かっぱ、九雀両氏の落語の後、落語に材を取った「噺劇」を、という趣向。

 かっぱさんの素人落語『平林』は十分に面白い。しかし九雀さんの『青菜』を聞くと、やっぱり玄人は違うなあと感じる。面白さの優劣はつけられないが、九雀さんの方がずいぶんと洗練されているのはわたしでもわかる。それはたとえば、道を歩く、などといった単純な動作によりはっきりと表れるようだ。余分な動きがないからだろう、バタバタした感じがなくてスマート。

 そして「噺劇『文違い』」。
 この芝居そのものについて言うなら、落語でやった方が面白い。それはこの話が落語としてやるために洗練されてきたものである以上、当然のことだ。ただ、「噺劇」が新しい芝居の型を作ることを意図しているのなら、単独の作品だけでは評価を決められない。

 九雀さんが「噺劇」について解説するのを聞きながら、つまりポータブルでリーズナブルな芝居を、ってことね、と解釈していた。小劇場芝居はとにかくお金と労力が掛かる。照明や装置のこともあり、落語のような「座ぶとん一枚分のスペースがあればどこでも出張しますよ」といった機動力に欠ける。それを弱点と捉え、補う方法を考えた、ということだろう。
 わたしなどは、そういう、瞬間のために膨大な時間と労力を注ぎ込む蕩尽性が好きで小劇場を見に行くのだが。芝居が効率的でないのは、文化の創造とは生産ではなく消費活動だろうから不思議なことではない(もちろん現在のままでは芝居関係者は経済的にやっていけないし、それでいいと思っているわけではない)。
 具体的に「噺劇」の特長として挙げられていたのは、まず舞台がシンプルであること。
 装置等一切なしの素舞台で、照明は色や明るさの変化しない地明かりのみ。BGMは太鼓、笛、三味線という鳴り物(生演奏というのはある意味とても贅沢なのだが、落語家なら鳴り物は当然できるはず)なので、内輪の少人数でOK。これだと舞台のための費用が少なくてすむし、場所を選ばず再演が容易。
 また、全員揃っての練習はほとんどしなかったので(各パートの練習はそれぞれの場面に出る役者に任せた)練習場所を借りる費用がいらず、メンバーの拘束時間も短かく、負担は軽い。
 ちなみに、全員揃っての練習がほとんどないというのは伝統芸能では珍しくない。能でも歌舞伎でも、新作だったり、よほど特殊な演出でもない限り、全員揃っての稽古というのはほとんどしないはず。
小劇場芝居が全員での練習を必要とするのは、作品のほとんどが新作だったり、一回きりの特殊な演出をしたりするからだろう。

「噺劇」形式で演じられた『文違い』は女郎が一人と、彼女に騙される男が二人、彼女を騙す男が一人出てくる話。
 原さんは飯盛り女にしては端正で崩れがないが、きれいだし十分男を騙せると思う。騙される男・や乃さんは、いかにも田舎者らしい野暮天に見えるようにしていた。見た目から親切に作ってあって、話がとてもわかりやすい。

 それでは、いかつい顔の落語家は原さんのような美女を語り出せないのだろうか。
 もちろんできるし、やっている。「噺劇」では美女を演じられないかもしれないが、落語でならどんな傾城でも演じられる。落語はそういう芸だ。ちょっとした仕草、表情、声音であらゆる人物を想像させる。観客の側も、現に見えているものを眺めているだけでなく、想像力をフル活動させて観ている。
そんなふうに想像力を働かせることに慣れている観客には、わかりやすいビジュアルは、かえって平べったく見えてしまうのではないだろうか。
 個人的には、落語なら一瞬ですむ人物の登退場の時間が間延びして感じられた。

 話は変わるが、ポータブルでリーズナブルな芝居形式を探るという点では、近頃はやりの「リーディング」もそうだ。あれもまだまだ玉石混淆。見ていて、何を見せようとしているのか、狙いがわからないものも多い。
 小劇場芝居が新作をやるのは、戯曲をみせようとしているからだろう。照明や音響に凝った演出をする以上(客席まで作り込んでいることもある)、いくつもの感覚を同時に刺激する空間を作り出そうとしているのだろう。
 何を見せたいのかによって舞台の作り方は変わってくる。それはどんなジャンルでも同じだ。
 では「噺劇」が見せようとしているのは何なのだろう。 今まで落語を聞いたことのない人に「こんな話なんですよ」と絵解きするなら、今回の舞台で十分。しかしそれでは落語のための入門編にすぎない。落語ではできない表現を目指しているのだとしたら、それはどんなものなのだろう。
 これは落語ではできないな、とわたしが思ったのは、女が客と対している部屋を別の男が覗くシーン。対話を基本とする落語では三人以上の人物が同時に行為することはできないから、珍しかった。特にできがよかったとは思わないが。アンサンブルを面白くするには、やはり全体を見る演出家が必要だろう。

 どんな形の舞台を作るかということは、何を見せたいのかによって決まってくる。
 反対に、新しい舞台の型は、それにふさわしいみどころ、作品を求めるだろう。それが具体的のどんなものなのかは、実際に幾つかの舞台を重ねてみないとわからない。

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