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女と男の関係は体と言葉の関係か |
松岡永子 |
関西では滅多に見られないク・ナウカ。演目はギリシア悲劇「王女メディア」。 コルキスの王女メディアはギリシアからの侵攻者・イアソンを愛して父王を裏切る。宝物をもってギリシアに帰った二人は、しかしイアソンの叔父の悪意のため他ポリスで落人として暮らすこととなる。もう一度華やかな生活を望むイアソンはその土地の王の娘婿になろうとする。イアソンと王の娘との結婚が決まり、前妻メディアとその息子には国外追放が命じられた。メディアは国王と娘を殺し、夫に我が子の死骸を見せつけて去る。——という、よく知られたお話。 舞台はメディアが国外退去を命じられるところから始まる。 メディアといえば魔女とか悪女とかいうのが通り相場だが、この舞台はいかにも理論的解釈で、こういうのもありか、と納得というか感心した。 ク・ナウカといえばspeaker(語り)とmover(動き)を分ける二人一役の手法(文楽人形を人間に置き換えて想像するといいだろうか? もっといろいろなバリエーションがあるのだが)で有名だが、今作は、男性がspeaker、女性がmoverと分かれる。男が言葉を、女が体を請け負う。わかりやすい二項対立の図式。 舞台上には、本がいっぱいに詰まった剣のような塔のようなものが屹立している。それが立っているひな壇は白く、その中央に丸い緋毛氈が敷かれている。後ろには明治時代の名所図絵が描かれた絵日傘が並ぶ。男性象徴女性象徴は見た目にもわかりやすい。 明かりが入ると後方から黒い法衣をまとった男たちが笑いさざめきながら現れる。 舞台上には顔のない女たち、仲居姿で顔写真を手に選ばれるために立ち並んでいる。 男たちはそれぞれに役を振り台本をもらい、軽く台詞の稽古など。そして、女たちが手にした顔写真を見ながら演じる女を選ぶ。選ばれた女は、おどおどと準備のために舞台裏へ去る。 男たちが客席に向かって一列に座を占め、語り始める。 現れたメディアは、チマ・チョゴリの上に日本風の打ち掛け。打ち掛けの背模様は芝居絵の姫君のようで、文楽人形のように背を向け裾模様を見せる動きではとても効果的。そして感情が激してきて自分を取りつくろわなくなると打ち掛けを脱ぎ捨てる。 アジアや女を野蛮で不合理と罵るエウリピデスのヒステリックさに、近代日本と共通するものを感じた、というようなことを演出家がアフタートークで言っていた。どうしようもない畏怖の感情があるからこそ、貶め支配しようとする。日本の朝鮮半島に対する、男の女に対する態度にそれが現れる。 だからメディアは抑圧された状況にあるし、舞台は男権的な宴の風景から始まる。 裏切ったことをなじられ、イアソンは言葉で自分の正当性を主張する。メディアは行動の方が大切、と言葉には説得されない。けれどこの世界(男、西洋、近代)は言葉に支配されている。 東からやってきたメディアは、ギリシア(西洋世界の大本山)では異邦人である。 アジア人であり、女であり、呪術を使う。ギリシア人で男で合理的精神を至高のものとするポリス「市民」とは正反対の存在。 復讐の計画を進めながら、メディアは息子を殺すことには躊躇いを感じる。けれども男たちのやり方を認めない誇り高いメディアは、隠し持った包丁で息子を殺す。刃は男性象徴に属するものだ。厨房道具である包丁はやや微妙だが、女が自分のために刃を使ったとき、合理的に整理され分類されていた世界に亀裂が生じる。 剣が血の色に染まり、本が雪崩落ちる。言葉の、男の世界の崩壊。赤いドレスに身を包んだメディアが自分のspeakerを殺す。メディアは大地を踏みならし、鈴を振る。それは、カーリーやダーキニーなど恐ろしい女神の降臨を思わせるものだ。赤いドレスのmover(女)たちが現れ、speaker(男)たちを次々に殺す。 男たちの死骸が黒々と横たわる中、赤いドレスの女たちが立つ。世界の秩序が転覆する姿。 コンセプトの勝った芝居。しかしそれが鼻につかない。視覚的にも聴覚的にも一分の隙もない美しさ。 物語の始まる前から終わった後まで、ずっと舞台上に留まっている黒衣の人物がいる。乳母役の彼女は語りと動きが一致する者でもある。彼女は何も為さない。ただずっと見ているだけだ。 劇中ギリシア人たちが何度も口にする「神々」は一度も姿を見せない。何もせず、人間をただ見ている傍観者こそが神なのだろう。 何もせず、ただただ見ている者。観客は神として物語を見ていたのだろうか。
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