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パフォーマー
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会場
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公演日
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夢魔 |
松岡永子 |
今年の「クラシックルネサンス」の中で、最も読みかえ度の高い演出。二つの作品を休憩なしでオムニバス上演する。しかし、これは本当にオムニバスといえるのだろうか。 静かに狂っている男とその世話をするために来た女の話、『夢魔』。 完全な肉体育成を方針とする孤児院に精神の概念を導入して瓦解する、『孤児の処置』。 どちらも、檻で内と外に区切られた舞台を使って演じられる。『夢魔』が抜群に面白い。 大きな屋敷の座敷牢に丁重に監禁されているこの家の息子。その世話をするために雇われた未亡人。 彼女は決して、絵に描いたような優しい弱い母ではない。かなりの悪意を含んでいる。というか、既に発している。女を演じる役者は三人。実体に近いだろう紫の服の人物と、声の高い白い服の人物と、低い声の黒服の人物(男の役者が演じる)。声質の異なる三人に台詞を割り振るのは効果的だと思う。オーソドックスな舞台を見ていなければ、もともとこんなふうに書かれた戯曲だと思うかもしれない。彼らは、一部女以外の台詞も口にする。人物の境界は曖昧。夢とはそんなものだろう。 男も、座敷牢まで案内してくる弟を含めて三人。本来案内だけしてさっさと退場するはずの弟は、檻の中に閉じこめられる形で舞台に残る。 舞台上の人物たちが交わす現と幻のあわいのような薄暗い会話。ときどき世界は傾いて止まる。弟の時間だけが均質に流れる。弟だけが正気、現実の世界に属しているのだろう。弟は扉を開け逃げようとするができない。溜息にも揺らぐような存在、しかし、逃れられない追いつめるような悪夢の感触。夢魔という言葉にふさわしい。 やがて女は男に、そちらに行きたい、と言う。男は、あなたは(檻の内には)出られない、と言いながら奥へと去ってゆく。 『孤児の処置』をみながら、演出家にとっては、完全な肉体とは美しい肉体のことなのだなあと思う。それは作家の言っている美しさとは違う。使うためのものではなく、眺めるための肉体なのだ。 だから肉体訓練を施す教師は写真を撮る。 完全な肉体の完成式である合同結婚式では、男たちがポーズを取るパートナーの写真を撮る(『孤児の処置』は今回すべての演出家が取りあげているが、結婚式を、撮る者と撮られる者といった男女の非対称な行動で表現したのはこの女性演出家だけだ)。 萩原恭次郎の詩の朗読場面は格闘ゲーム。詩のフレーズはゲームの格闘技名と同じく任意の語として扱われ、完全に意味が抜け落ちている。作中で暗いと評されるダダの詩よりよっぽど空虚。 精神の導入により今まであった秩序が瓦解した後、「君は太ったね」など言葉を交わす(交わさない?)人々は、お互いの姿を見てはいない。床に散らばる写真を拾い上げそれに向かって言葉を発する。「境遇を取り替えよう」の台詞をきっかけに内と外を区切る扉が閉ざされる。 この作品で、たぶん意味があるのは、檻の外にいる人形を抱えた孤児院の院長(あるいは人形が院長)が『夢魔』で女を演じた役者であることだ。内にいる人たちが順に消えていき、最後に『夢魔』で男を演じていた役者が檻の奥に沈むように消える。 女はただ人形を抱いて檻の外に座っている。 外か内かということにはあまり意味はないだろう。ただ男と女の間には檻がある。自分と他者との間には檻がある。 これは『夢魔』の中に一瞬きざした違和。まぎれ込んだ手触りの違う別の悪夢だ。正直、ここで演じられる作品が『孤児の処置』である必要は感じない。 戯曲の中にかなり色濃くある、社会の矛盾を告発する調子はまったく見あたらない。そんなはっきりとした対象を持たない、現代的な孤独感を扱った作品に見える。 前にDASH CAMPANYの演出を無国籍無時代テイストと評したが、トリコ・Aはさらに時代性、社会性などには興味がなさそうだ。そのためか現代日本のバーチャルムードが漂う。
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