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男と女の業を超えた、魂の結びつき 栂井理依
 狭い暑苦しい紫龍テントで、200人近い観客に囲まれながら、3時間もかけて、新宿梁山泊の芝居を観るとき、わたしはいつも思う。なぜ、自分は芝居を観るのか、と。居心地で言えば、けっして良くないその場所で、自分は何を観ようとしているのか、と。

 さて、今回、新宿梁山泊が上演したのは、『唐版 風の又三郎』。29年前に、唐十郎率いる状況劇場によって初演され、今まで再演されなかった幻の名作だ。(当時、わたしは生まれてさえいない。)唐十郎は、宮沢賢治の童話をモチーフに、自衛隊員が航空機を無断操縦して飛び立ち、消息を絶った実際の事件を取り入れ、恋人同士ですらない男女の、純度の高い愛の世界を描いた。

 精神病院から逃げてきた青年「織部」と、自衛隊の練習機を乗り逃げした恋人を探すひとりの女「エリカ」。織部は、汚れた世間から自分を連れ去る「風の又三郎」のイメージを、エリカに見い出し、利用されているのを承知で、必死に彼女を守ろうとする。

 エリカが探し当てた恋人は、既にこの世の人ではなかった。エリカは、そこに残された彼の胸の肉を他人に渡すまいとし、迷わず、それを口に運ぶ−。

 愛した男の肉を食らうという、原始的な行為は、女の純粋さと、毒々しさを表わす。健気さと、狡猾さ。初々しさと、老獪さ。相反するように見える両端が、女の中には常に存在し、女を支配している。エリカを演じる近藤結宥花は、少女のような顔立ちと透明な声、肉感的な身体を持ちあわせ、そんな女の多面性を見事に漂わせる。エリカの周囲の男たちは、それを理解できず、エリカを「悪女」として追いつめていく。

 しかし、男と女は、合わせ鏡のようなもの。女がどうしようもない業を抱えるのと同じように、男も抑えきれない業を抱える。空へ消えたエリカの恋人は、戦時中の神風特攻隊、そして9.11テロでビルへ激突した飛行機に乗っていたテロリストにも重ね合わせることができる。理想社会を、力の行使で実現できると信じて、命を投じる男たちの、哀しくも愚かな弱肉強食の世界。女にはけっして理解できない、男の基準だ。そして、それが女の哀しみを生む。そんな哀しみの歴史が、女の業を深めてきたのかもしれない、とふと思う。

 織部は、エリカに横恋慕する男との対決を強いられ、負傷を負い、エリカに抱きかかえられ、こう言う。「男らしいものは、何も持っていないんだ−」
 そんな織部が持っていたのは、精神病院から持ち出した緑のスリッパだった。エリカはすかさず、それを取り上げ、「これが、飛行機よ」と言って、織部の手を取り、空へ向う。

 「弱い男」である織部がエリカを救い、『風の又三郎』としてのエリカが織部を救う。エリカには、男らしいものは何も要らないのだ。必要なのは、ただ自分を想う男の心。また、織部に必要なのも、精神病院から、生きる歓びを感じさせてくれる世界へと、連れ出してくれる女の心だ。男女の業を超えて、二人の人間の純粋な魂が結びつく−。

 舞台奥のテントの壁がはらりと落ち、大量の水は噴射する中、プロペラ機で浮上していく二人の幻想的な姿は、想いの純粋さが、その結びつきが、汚れを洗い流し、二人を新しい世界へ運びこむことを暗示している。

 なぜ、わたしが芝居を観るのか。
 それは、ただ、人間の強い「想い」を感じたいからだと思う。
 人というのは、どこまで強く想えるのか。
 そして、それはどこまで届き、世界を変えることもあるのか。
 それは、人間という存在を肯定し、その可能性を示していくことに、他ならない。

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