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決定的な失策に補償などありはしないというタイトルはどこから来たのだろう 松岡永子
舞台に明かりが入るとふたりの「役者」が上演する芝居について話し合っている。「明かりが入ってこの芝居は始まるんだ…」
こういうシーン、見たことあるなあ、と思う。これまでにA級MissngLingの芝居をいくつか見たことのある者にとっては、今回の芝居は既視感がいっぱい。
大学の写真部、夏合宿、祖父母が決めた婚約者、あるいは、ボロアパートに訪ねてくるセーラー服女子高生。そんなシチュエーションをはじめとして、仰向けに寝ている男の顔を裸足で踏んでいる女(「足どけてくださいよ」「どけたらパンツ見るやろ」といった会話が交わされる)といったインパクトのあるシーンも、以前見たことがある。
「自己模倣」である。
それは、前にやってうけたからまた使おうなんていうカワイイ無意識によるものではもちろん、ない。確信犯だろう。昔やった芝居に似てますよね、というメタな台詞でのだめ押しもあったし。
模倣のモチーフ自体、A級MissngLingではよく扱われている。
大学の写真部を舞台に選んでいるのは、オリジナルの芸術作品のみが持つアウラについての言説をふまえてのことだろうし(以前の写真部の話では複製芸術という語そのものをタイトルに使っていた)、パフォーマンスは、よくあるお笑いではなくものまね芸だ。リストカットを含め数々のエキセントリックな言動は憧れの先輩のまねをしていただけ、と女子学生は告白する。
個人的には、オリジナルという概念を信じていないので複製芸術論には興味がない。A級MissngLingの芝居で、自分はコピーだという者の自意識に気おくれがあるのは、それがコピーというよりはオマージュだからではないかと思う。自己模倣ならどうだろう。オマージュよりもパロディに傾いてしまいそうな気もするが、その辺はしっかり踏みとどまっていたようだ。

物語全体としてはいくつかのお話が同時並行で進み、その断片をカットアップする形で見せる。劇中、モチーフとして非ユークリッド幾何学が語られ、交わる平行線への夢想が語られる。が、それぞれのお話は平行してはいない。どちらかといえば入れ子状態。

冒頭シーン。自分が書く芝居の冒頭シーンの演出プランについて女が語る。まさに今、おこなわれているとおりの演出。そして女は芝居のタイトルを「決定的な失策に補償などありはしない」にすると言う。それまで聞いていた男は「実際に書くんは僕なんやから少しは意見言わせてください」と「プラスティックソウル」というタイトルを主張する。決着はジャンケンでつけることになる。

女が勝ったのなら。
今見ているこの「決定的な失策に補償などありはしない」という芝居は彼女によって書かれたものだ。
男が勝ったのなら。
それは、また違う構造の芝居が現れるというだけのことだ。

押入の上段に女が座り、語る。下段で男がワープロを打っている。男の後輩である女子大生が、両腕いっぱいの本を返しにやってくる。女子大生には女は見えない。
女はこの部屋の前の住人で、リストカットした時はずみで転んで打ち所が悪くて死んだ。思い残すことがあって成仏できないと言うので、脚本を書くために身体を貸してやっている、と男は言う。その脚本はいくつかの話が同時進行する形式で書かれている。

その中のひとつのお話。
大学写真部の夏合宿。とろりとけだるい夏の海辺。いかにも大学生な人間関係。その中で際立つ、リストカットを繰り返しその傷を撮っている女子学生。彼女を慕う同性の恋人には暴力をふるう。

また別のお話。
ストリートでものまね芸をやっている男。いいなずけでもある幼なじみに紹介してもらうアルバイトもまるで続かない。いいなずけの妹だけが大はしゃぎで応援している。ふとした拍子にTV出演のチャンスが舞い込むが、もちろん失敗。

幽霊なんて信じられないと言う後輩に「でも、半分できた脚本を同じ劇団やったという人に送ったんや。実在したで」と男は言う。

脚本を送られた男は、信じられないながらも既に解散してバラバラになっている劇団仲間を集め、それを読ませる。そんなことはありえないが確かに死んだ仲間の作風にそっくりだ。男は、上演してみないか、と言い出す。
——という話も脚本に書かれている。

脚本が送られてきたなんて嘘。本当はあなたが彼女をまねて書いたんでしょ、という劇団仲間の指摘を、男は認める。(事実が確認されることはない)
男は「本日は『プラスティックソウル』にご来場いただきありがとうございました」と型通りの終演挨拶をして、自分の思いに決着をつける。

書き上げて成仏したのか幽霊がいなくなった部屋で、男が落ち込んでいる。幽霊に好意を抱いていた男は何をする気力もなく、彼女が本当にいたのかどうかさえ自信を持てなくなっている。心配してやってきた後輩が、この前ここで撮った写真に何か写っていました、と写真を見せる。あいつ、変な顔して写ってる、と確認して男が言う。

「補償などありはしない」というタイトルにもかかわらず(あるいは、だからこそ?)すべてのお話にハッピーエンドが用意されている。
大量出血の跡を残し行方不明になっていた女子学生は、病院から自分で歩いて帰ってくる。
いいなずけは彼の言動に呆れながらも、見捨てることをせず、新しい仕事を紹介してやる。
戯曲は書き上げられ、上演された。
男は新しい恋を見つけたようだ。
ちょっと甘いかなあと思いながら、見ていて据わりがいい。
この芝居に欠点があるとすれば、たぶんそんな風にきれいに収まってしまったことだろう。
いくつかの不即不離のお話をコラージュしてみせる手法はまさに手に入ったもので、実に巧い。この作品では、どれがメタレベルの話なのかについて揺らぎを与える部分はかすかにあるものの、幽霊が書いた脚本、あるいは(死の部分も創作だとして)元劇団員の女が書いた脚本という枠の中に収めてしまって目立った矛盾がない。非ユークリッド幾何学の話など、読み解くためのヒントはわかりやすく散りばめられている。
そんなふうにわかった気になっていた者が、見終わってから、実は全部間違っていたのではないか、と恐慌をきたすか笑い出すような、はみ出す部分が欲しい。
そういう点で、最後に出てきてラジカセのスイッチをいれ劇場を音楽で満たす幽霊の、不機嫌な様子は好きだ。ただひとりわかりやすいハッピーエンドを持たない彼女の不機嫌さだけが、彼女が書いた物語からはみ出している。

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