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鉄橋の上のエチュード 松岡永子
 駐輪場で一台の自転車を探す。予備の鍵もないボロい自転車だ。置き去りにされた自転車の群の中で、それは容易には見つからない。それでも探しつづける。駅前駐輪場、学校の自転車置き場、商店街。それは福知山線脱線事故の前に女子高生がどこかに置き忘れたものだ。父親に頼まれて同級生たちが探している。その中には死んでしまったはずの本人の姿もある。

 まだ記憶に新しい事件を芝居で取りあげるのは難しい。被害者の思いもあるし、その人たちへの思いもある。もしそれを納得させられるものがあるとすれば、芝居を作っている者の真面目さだろう。
 演技としては、高校生の舞台は稚拙だ。不器用で直球しか投げられない。対象に向かって真摯で真面目なのだということが伝わってくる。そんな気持ちを隠すすべも、まだ持たない。

 死んだのだと知ってはいても姿は見え話ができる。メールを送ると返事がくるから、まだどこか近くにいるのだろうと思う。事故車両に一緒に乗っていて入院先から抜け出してきた同級生は死んだこと自体を認めない。一人の少女が、メールを返していたのは父親から友達の携帯電話を預かった自分だと告げ、死の事実を受けいれるために自転車を探しているのではないかと主張する。自分も脱線事故で怪我を負った少女は、駅を眺め電車を眺め、一歩一歩再び電車に乗るための訓練を重ねている。決して忘れないために、鉄橋の上から線路を見つめつづけている。事故の犯人は冷たい背中のおとななのだと思っている。
 そんな人物はどこにもいない。たとえば、運行時間厳守の命令に呑みこまれてしまった人間、効率第一主義に呑みこまれてしまった人間、一人の人間としての顔をなくし大きな組織の歯車となったときの人間のことだろう。
 自分もそんなおとなになるのだろうかと思い、そうならないために見つめつづけようとしている。

 組織の中の個人というテーマに通底するし公演場所が伊丹だから、作家が自衛隊駐屯のことも書きたいのはわかる。しかしそれは多少盛り込みすぎでかえって拡散してしまう気がする。
 そんな大きな物語の部分よりも些細な日常のリアルさが魅力的だった。ある一人と特別親しい友達になれば他の子は友達ではないことになる、といった幼さの残る人間関係とか、目の前にいてもメールで会話しようとしたり、返信メールの速さ長さで気持ちの強さを推定する現在的な感覚。絶えず軽く触れ合っていなければ不安でたまらない、そんな時代年代の少女たちにとって友達の死はどんなものなのか。むしろ自分のために悲しみながら、もっと思いを広げ他人を思いやろうとする姿勢。これが高校生の平均だとは思わないが、この年頃に特徴的なものを表現しているとは思う。

 少女たちは事故現場や取材陣を見ながら、どこかで見たことがあると思い、震災だと思い当たる。震災のときには空襲が引き合いに出されていた。震災も過去のできごと、「歴史」になったのだなあと思う。
 震災のことを思えば実感するが、ものごとは時間がたったからといって整理されて心のどこかにきちんと収まったりしない。過去のできごとだからといって作品にしやすいわけではない。それでもまだ時間のたっていないできごとを事故現場に近いところでやるのはたいへんだったろうと思う。同時に、今ここでしかできない舞台だったとも思った。

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