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パフォーマー
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会場
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公演日
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わからない…面白さ |
松岡永子 |
「あれ、おもしろかったよ」と言って「何が?」と反問されると言葉に詰まってしまう。 そんな芝居を確信犯で作っている劇団の代表格。テーマのない芝居もストーリーのない芝居もいまどき別にめずらしくはない。その徹底具合がすごいのだ。 dracomの芝居は、わけはわからないが勢いがあって最後に何か感動が残る、といったタイプの芝居でもない。もっとドライ。あらゆる努力、技術、時間が無窮へと消費されるためだけに営々と築かれている。観客はそのさまをあぜんとして眺めているだけ、といった感じ。何をやるかではなくどうやるかに興味が傾ききっている。コンセプチュアルアートに近い。 客席は奥と手前に分けられ、中央に雛壇のようなものがしつらえられている。天井部には這ってならかろうじて抜けられるだけの空間があり、両脇は暗幕で見えないように仕切られている。つまり、どこに座っても観客は舞台の半分しか見られない。役者は、天井部から側面から、あちらとこちらを往き来する。 こういうつくりの舞台はたまにあり、そのときには必ず「二回見てください。両方見ていただくとよりいっそう楽しめます」と説明が付く。が、そんなことは一言も言わないところが、さすがdracom。別に両方見たからと言って理解が深まるとも思えないが…気になる。 まず、雛段に仕込まれたTV画面に文字が映る。旅客機墜落について書かれた文章が、一文節以下の短い単位で映っていく。文字を目で追っていると、台詞を言いながら役者が出てくる。これ以降、役者が舞台上からいなくなる終演まで文字は流れつづけるが、読むことはほぼできないし、意味を取ることはさらに不可能。役者の発する台詞も身振りも、意味を伝えるために作られてはいない。言葉に意味がないわけではない。全体を構成していないだけだ。 初演ではたしか、役者はマラソン給水所で選手を迎える人々のように横一列に座り、発する言葉とこめられる感情の彩りと身振りが、それぞれバラバラの方向を指している芝居だったという印象がある。今回わけのわからなさは同じだが、見せ方は洗練された感じだ。理解はできないが面白い。 パンフレットの記載によると「今回の制作段階におけるスリリングで面倒なルール」はこんな感じ。 ・メンバーで六面体、十二面体サイコロを振る。 ・台本をパートに分ける(三が出たら三ページ目まで、次に五が出たらそこから五ページ)。 ・パート毎の表現方法を十二面体サイコロで決める。(一から四ならドラマ、五から八は歌、九・十は映像、十一・十二は音声) ・ドラマ、歌パートの担当人数を六面体サイコロで決める。(六が出たら六人出演) ・各パートの出演者を十二面体サイコロを振って出た目が大きい順に決定する。 ・ドラマパートで台詞をしゃべる順を十二面体サイコロを振って出た目が大きい順に決定する。 ・歌パートは出た目が最も大きい人がメインボーカル、次に大きい人がコーラスというふうに役割決定。 フライヤーによると初演のときも台詞づくりにサイコロを使ったようだが、詳細は不明。 今回も、手順は書かれているが実際に構成していくときの経過は参加していた者にしかわからない。観客が見られるのはその結果だけで、背後にある(はずの)膨大な面白さは推測するしかない。そういうコンセプト剥き出しなところがdracomなのだが、最近は観客サービスも考えているのか、それとも賑やかさもコンセプトに加えたのか、舞台のみ見ていても楽しい。あまりにもメロディアスでないため耳に残る歌。裏側の舞台で歌とダンスがくりひろげられている(らしい)ときにこちら側ではかぐや姫がパントマイムで語られていたりする。 この舞台は一度みたあと、裏側からもう一度見ても別に何もわからない。情報は過剰にあるが、その情報は意味には落ちてこない。情報の洪水の中で何一つ伝わって来ない現代社会の暗喩…などではないだろう。 理解不能の状態に置かれることをそれほど不快に思わないなら、かなり楽しめる。理解なんかされてたまるかと決意しているような風情が面白い。わたしの感想もまるで的外れかもしれない。それこそ彼らの望むところだろう。
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