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すみません、書いてしまいました 西尾雅
某有名アニメを1人芝居化。著作権にとりわけ厳しいと聞く製作会社が上演を許可するはずもなく「非営利なら黙認」とのことでシークレットに無料上演を敢行。劇場が毎月発行する上演情報紙にすら掲載なし。私が本公演を知ったのはBURTONS旗揚げ公演時の折込チラシで。もちろん受付で即予約。2日間3ステージ、1ステージ40人足らずの観客だけが享受するぜいたくさ。挨拶文に「今日見た内容については秘密にしてくださると助かります」との但し書きまであり。けれど、これを語り伝えないのはあまりにもったいない。タイトルを伏せ、出来るだけ原作名を悟られずに(勘のいい方はすぐに察するだろうが)、あえて感動を表明する。

石原正一ショーの路上漫画ライブや腹筋善之介のパワーマイムなど漫画を身体で表現する試みは珍しくない。TAKE IT EASY!が「立体少女マンガ」と呼ばれたこともあるし、Studio Lifeが「トーマの心臓」「訪問者」(萩尾望都)や「OZ」(樹なつみ)など漫画作品の上演を得意とすることも有名。漫画をなぞる「ごっこ」は「演じる」という演劇の原点でもあり、漫画と舞台はとても近い。が、今回、梅本真里恵が1人芝居で挑んだのはアニメを1本まるごと忠実に再現すること。紙に印刷された漫画とスクリーンに上映されるアニメの差は決定的だ。

アニメの持つ躍動感やカラフルさ、音楽等サウンド面でも情報量の多さは漫画を圧倒する。全登場人物を1人で演じ分けるだけでも気の遠くなる作業。膨大な台詞の量を抱える1人芝居は確かに多数あろう。が、人間ならざるものまでを演じて、その登場キャラの数は文句なくギネスブック級(シークレットなので申請出来ないけど)。性格を肉付けし、声色を変えてそれぞれのキャラを演じ分けるだけでも大変だが、彼女は7〜8m四方の舞台を縦横に跳びはね、アニメと同様の動きをつける。小柄な身体のどこにそのスタミナがあるのか、そのタフさは計り知れない。

そもそも日本には落語という1人の語り手による伝統芸がある。落語なら首を左右に振って2人の会話を演じ分けるところを、彼女は身体の位置を入れ替え交互に台詞を発することで会話を立体表現する。それだけでも相当な運動量を要するが、背景の森や谷、そこに住む動物や昆虫、空を飛ぶ鳥や飛行機、兵士やロボットの戦闘までを身体で表現する。落語同様に語り芸で進行する部分もあるが、はるかに全身を駆使するこれはパフォーマンスと呼んでいい。

その舞台背景は黒幕、照明は地明かりと同色のピンスポットのみ(戦闘シーンの発射をストロボ点滅で表現)。サントラこそ流すが、口頭の擬音でも大忙がし。小道具は使わず、彼女を助けるものは何もない(歌舞伎のぶっ返りを真似た表裏の色が一瞬で変わる衣装の仕掛けはある)。まさにたった1人、その身体のみで大作アニメに挑む。「ここは海」と役者がいえば劇場は海になる。演劇とは、つまるところ観客が自分で想像力を働かせる宇宙に他ならない。彼女が産み出す不思議な空間で、観客と彼女のイマジネーションは果てしなく交感する。それは永遠と思われる長い時間のようでもあり、あるいはほんの短かい一瞬だったような気も今ではする。はっきりしているのは、それこそが得がたい至福の時だったということのみ。

(実上演時間)2時間を超す上演台本の台詞と進行を覚えるのみならず、冒頭とラストのタイトルロールのクレジットをよどみなく読み上げる記憶力にも驚ろかされる。作画や絵コンテなど映画館では席を立つ客も多い膨大なクレジットのひとりひとりを暗唱する誠意に創り手への敬意がにじむ。その想いが通じない著作権という制度を嘆いても仕方ないが。

本作の魅力は、人間1人でどこまでアニメの立体化を果たせるか、梅本真里恵という女優がどれだけ多彩な身体表現をなしうるかにある。ほぼ素舞台、とうぜん出ずっぱり(CMと称して舞台下手で2回の給水タイムは取る)の役者は、持っている引き出しすべてを開けざるを得ない。膨大な人の手と時間を要するアニメに、たったひとり限られた時間で対抗する。アニメが巨大なエンタメ産業に育ち、漫画ですらアシスタントを多数抱えた家内工業になった今、元々1人の人間の手から生まれた漫画を原点に戻す試みといえる。それはショービジネスと化した演劇にも通じる。経費のかかった装置や著名な役者に頼らずとも芝居は出来る、創造の志さえあれば。

心やさしくも戦いを辞さないアニメのヒロインは、少女といっても通じる(実年齢を想像させない)小柄な梅本真里恵によく似合う。少女から女に移り変わる成長期のあやうさ、中性的な魅力が彼女の全身にたぎる。開幕するや袖から飛び出した彼女は舞台上で軽くストレッチして本編に臨むが、アニメそっくりの衣装に包まれた彼女を見た瞬間、スクリーンから飛び出したフィギュアが動いている錯覚に陥った。むろん、むさくるしい男や人ならざる虫なども(同じ衣装のまま)彼女は演じるのだが、ヒロインをほうふつさせる彼女の存在が舞台版を発想させたことに疑う余地はない。

惜しむらくは原作アニメの得意とする飛行シーンが1人ではかなわぬこと。重力に縛られる生身の人間が浮遊感覚を表現することの困難さがよくわかる。バレエの並外れた跳躍や維新派の編隊飛行(「夏の銀河植物林」)が、重力の存在を忘れさせることはあるが(バレエは男性による女性ダンサーのリフトで、維新派は広大な舞台空間と一糸乱れぬコンビネーションでそれを可能にする)。今回の上演で、20年前の原作アニメが既に環境破壊や戦うことの無意味さなど現代の視点を先取りしていたことにあらためて気づく。低コストにせざるを得なかった今回の1人芝居が、エコロジーの大切さを説いて理にかなう。金のかかるアニメがエコを訴える皮肉を突いたともいえよう。

カーテンコールでは衣装替えしてテーマソングを歌うサービスぶり。最後まで疲れを見せない彼女の元気さにたまげたが(夜の回も控えているというのに)、フリフリのロングスカートでアイドルよろしく振りまく笑顔は、萌えのメッカ日本橋にある当劇場に合わせたかのよう。歌う姿はただのコスプレ少女にしか見えず、イマジネーションとパワーの源泉はどこという疑問があらためてこみ上げてくるのだった。

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