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パフォーマー
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会場
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公演日
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High School Play Festival 扇町高校評 |
松岡永子 |
高校演劇祭HPF(High school Play Festival)2003三日目。鶴屋南北戯曲賞受賞の作品を演劇部顧問の演出で。 健康グッズ通販会社にひとりの男がアルバイトとしてやってくる。彼は言葉に厳格で、事務所の人々が使うら抜き言葉や、敬語・ことわざの使い方の間違いを指摘せずにはいられない。 芝居を見慣れていない観客が多いだろうHPFの演目として、二時間以上の作品はどうかと思うが、確かに力演。面白かった。 また、同年代、女子がほとんどという高校演劇の制約の中で、登場人物の年齢が多岐にわたる作品、男性が主役の作品は難しい。今回も違和感をおぼえる部分がなかったとはいわないが、それぞれの人物もよくできていた。OLが携帯電話三つを駆使し、上司相手の応対、友達相手っつーかーってカンジィ(語尾上がり)のダベリ、彼氏相手のブリっ子声を使い分けるシーンなど、お見事。 お話のテーマは言葉そのもの。それをきちんと意識して演じている。言葉を激しくやりとりしながら、コミュニケーションは不成立。反対に言葉のないところでのコミュニケーションの成立。言葉の内容とは別のレベルでのコミュニケーションの試み、その成功、不成功… 言葉のレベルと関係のレベルの一致、不一致をきちんと理解している(理解している、と観客に感じさせるのは未熟だ、といえばそれはそうなんだが)。この年代にしては言葉にとても意識的。なぜだろう。やはり演劇部で、しかも女の子が多いから、だろうか。 作中、初老のフェミニストは、言葉は伝達手段などではなくアイデンティティそのものだ、と言う。 ギャル語を使うか否かに関わらず、日本の女はバイリンガルに生きている。高校生にもなれば、二つどころか三つか四つ、言葉を使い分けることを期待される。多くの者が無意識にやっていることに対して意識的なのは、演劇部で言葉や身体に向き合った経験があるからだろう。 スペースゼロの閉鎖に伴い、昨年で終了が予定されていたHPF。それを今年度の開催にまでこぎつけた関係諸氏の努力には頭が下がる。もともと芝居なんて、一部商業的なものを除いては関係者の心意気で成り立っているようなものだが、こういう企画に参加するスタッフ、劇場の熱意は並大抵ではない。 記者会見をし、ホームページを開き、毎日チラシを入れ(前日の舞台の様子と翌日の告知。なかなかできることではない)、舞台だけでなく、活動の全体を丁寧に伝えようとしているのもたいへんなことだ。 十四年前、HPFは学校以外、コンクール以外の発表の場を、ということで始まったのだと思う。コンクールと違って公演時間に制限なし。当初は多くの学校が昼・夜二回公演をやった。それまで、高校演劇はほとんど一発勝負だったから、公演後反省会をし、もう一度、というのは良い経験になったのではないだろうか。しかし、参加校が増え、恒例化するにつれて、やって当然、やってもらって当然という感覚の生徒も出てきたと聞く。今回区切りがついたことは、逆説的だが、参加する高校生の意識向上には役立ったかもしれない。 高校生をめぐる状況も変わった。入試の多様化により、AOなどでこの時期入試本番を迎える生徒もいる。就職協定がきちんと守られている大阪では前倒しの就職試験などはないようだが、先のことはわからない。夏休み、高校生の演劇祭が続けられるか。今年できたからといって楽観してばかりはいられない。
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