|
|
|
|
|
|
|
パフォーマー
|
|
会場
|
|
|
公演日
|
|
あの眩い光に砕けろ |
松岡永子 |
大阪南部の町・ツダを舞台とするシリーズとしては番外編の感じ。ヨソモノの嫁、という異邦人の目で見たとき、1970年のツダの町の閉鎖性、前近代性、高度経済成長期をむかえて変わるところ変わらないところが見えてくる。 一方シリーズから切り離して男に裏切られた女の話としてみたとき、その舞台がツダである必要があるとは思えない。嫁いだ先が親戚知人が一人もいない場所であれば任意の場所でいい。 舞台中央にある正五角形の窪み。基本的に物語はこの内で演じられる。 真ん中に祭櫓のミニチュアが、一番上に置かれた祭太鼓まで精緻に作られている。 泉南周辺の祭で有名なのは岸和田の「けんか祭」だろう。そのイメージ通り、あの辺りの祭は激しい。それを前提に、ボルテージの高いエネルギーを五角形の星の中心に据えたかったのかもしれない。しかしこの物語で祭は遠花火のようだ。くり返される盆踊りの手つきは狐火のような、どこか現実から薄膜を隔てたものを見るときのような感じがする。この祭に狂騒はない。その激しさは直接には描かれず、中心となるには弱い。 かわりにいるのは一人の女。舞台上、視覚的にも星の中心にいることが多い。 ツダに戻り工務店を継いだコウジ。大阪から駆け落ちするように連れてきたサナエと結婚して二年になるが、クラタ組の一人娘ユミコともつきあっている。同じ土建業でも高度成長の波にうまく乗り、大きくなりつづけようとしているクラタ組の婿養子にはいることをコウジは狙っている。ユミコが、その父親がコウジとの離婚を迫る。ヨソモノのサナエに味方してくれるものはいない。 パンフレットなどにもあるように、「メディア」に状況は似ている。夫よりも先に娘の父親が別れを説得に来るなど、シーンの構成も「メディア」を意識しているだろう。だが、こんな状況は「メディア」を引き合いに出すまでもなくよくあることだ。 サナエはメディアとは違う。メディアの魔法のような、特別な力は持っていない。ただ自分の居場所はないと自覚しているだけだ。何もせず、ただ見すえている。ユミコに「あんたのこと別に嫌いやない」と言うのも嘘ではないだろう。サナエは視点だ。動かず、見すえている視点をめぐって周囲は動く。それは太陽の周りをめぐる惑星の動きに似ているかもしれない。 別れ話をつけることもできず、サナエの妊娠を隠していたコウジにユミコの父親は見切りをつける。サナエにすがって助力を乞うコウジの姿にかっとなって刃物を振り上げるのはユミコだ。サナエは最後まで、ただ見ているだけ。林の中で争う母娘。一人の男をめぐっての争いは、濃い血のつながりを持つ村人たちの関係や、因習的な男女の関係を示すのか。 この場に満ちているのは祭の狂騒ではなく、内へ内へと沈んでいく夜明け前の深い闇だ。中心にあるのは熱い太陽ではなく、すべてをただ見つめている瞳、ブラックホールだろう。ブラックホールはホワイトホールと鏡像関係にある。 ツダの者でない登場人物はもう一人。その(幻の)男は白い服を着ている。 羽化したばかりのセミの身体は白くやわらかく、羽は濡れて縮こまっている。陽が昇れば羽は乾き飛び立たねばならない。いつまでも闇の中でまどろんでいることは許されない。 それは胎児でも、自足しているように見える町でも同じことだ。
|
|
|
|