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パフォーマー
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会場
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公演日
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銀河ワルツ |
松岡永子 |
気がつくと列車に乗っている。ポケットのチケットを見た人が、これはとても遠いところまで行ける切符だという。 銀河鉄道に乗っているのは一人息子を事故でなくした母親。息子が一緒に逝くことを望んでいるのだろうと思う。 乗客はその他、やくざの一人娘と知恵遅れの青年というカップル、キャリアウーマンと彼女に仕事で裏切られたことを恨んでいる後輩元OL、カンパネルラとジョバンニ。彼らはそれぞれ黒い兎からチケットを受け取っている。カップルは心中ツアー、元OLは憎い相手を殺してくれる暗殺ツアーとして。ジョバンニたちはふたりでどこまでも行ける旅として。 そしてやっぱり銀河鉄道なので、メーテルと鉄郎が出てくる。 同時期に見た「浪花グランドロマン」の芝居に登場したメーテルは、いつか少年の存在と出会うために永劫の回帰を生きるのだと語る、まさに母親原型だった。 しかしこの芝居のメーテルには体格のいい男優が扮し、TVアニメのパロディであるCMの真似をする。物語の重要人物である母親との共鳴も感じられない。彼らにとって「メーテル」は、もはや内実を託すべき存在ではなく、舞台をキャッチーにするためのパロディ要素なのだろう。 実はこれはふたりの間で心臓をやりとりするツアー。片方が命を差し出し、受け取った方が生き延びられる。 俗世でどうしても純粋なままいられないと悩む娘は、純粋な青年に(知恵遅れ=純粋という発想がいかにも俗っぽい)心臓を渡す。青年はひとりでは生きられないと死を選ぶ。病気で余命少ないキャリアウーマンは、自分の後を託せるかもしれない後輩に心臓を差し出す。心中も暗殺も、結果は当初の予定通り。 登場人物は、この世の中は思った通りになる、という。思った通りにしかならない、ともいう。世界は想像の外にはみ出していかない。 ジョバンニはカンパネルラが死んだことを忘れているふりをしている。でも本当に死んだのはジョバンニの方。いつか傍にいなくなることを恐れたカンパネルラが、幸せの絶頂で時を止めようとしてジョバンニを殺してしまった。本当の望みは相手を幸せにすることだったと気づいたカンパネルラは自分の心臓を渡して去る。 嫌われるのが怖くて、他人の思惑に従ってばかりいるために自分が失われていくと感じる。失うのが怖くて、自分から壊してしまう。 青年前期にはよくある心理だ。しかしその理由を、親に捨てられて孤児として育ったからだとする。なぜそんな性格・性情を持つのかを、物語の中だけで完結するようにわかりやすく説明する。 天上世界の息子は、いつかまためぐりあうまでお母さんには生きていてほしいという。列車に戻った母親は泣いているジョバンニを抱きしめる。客席を含め劇場全体が星明かりで満たされる。もうすぐ夜明けだという。 芝居の冒頭、舞台を物語を召還する儀式だとする。異世界である「兎町」を舞台上に現出するというのがこの劇団の趣向らしい。現実との直接接触面を最小限にして世界を磨き上げるタイプの作り方だ。 事実、よく磨き込まれている。ダンスや歌のレベルも高い。あきらかにバレエの素養がある者が数人、また、クラシカルな踊り方ではないが頭より高く足が上がる者もいる。歌も巧い。というか、巧い者がマイクを持ってソロで歌う。アイドルのイベントを思わせる巧さだ。台詞の延長としての歌ではないところがミュージカルなどとは違う。 宮澤賢治(特に銀河鉄道)への偏愛、死や罪に親和性がある(と主張する)こと、独特のタイミングで歌ったり踊ったりしたがること。 無関係にも思える「アングラ」の血統を彼らが継いでいるのだと思わせる要素がいくつもある。全体の雰囲気に通じるものを感じもする。しかし、直接触れる部分の肌触りはかなりちがう。兎町はとてもきれい。つるりとしていてざらつく抵抗感はない。なまなましい荒っぽさ、むきだしの思想の泥臭さがない。 わたしが昔見たアングラ(とそれを真似た)芝居といえば、地べたに近いところに発し、自らが呼び起こした非日常の物語を通り抜けて、この世の可能性へと出ていこうとするイメージだった。特にテント公演などでラストに舞台の後ろを開けてみせるのは、舞台上の物語から現実への出立を意味するのだろう。 兎町が作り出すのは美しい人工的空間。物語は劇場内で始まり劇場内で終わる。 歌もダンスも衣装も実によく作り込んで、区切られた世界の中を完全にコントロールしようとしている。空間を人の手でコントロールできる電気の光と音で満たす。コントロール不能の危うさを感じさせる「火」や「水」を取り入れたがるテント芝居とは好対照だ。 若い劇団を見ているとゲームのようだと思うことがある。この作品はその典型。完結した世界の中でステージをクリアしていく。みごとにプログラムされていて、それ以外のことは起こらない。世界はすみずみまで説明される。「闇」も計算上に作られていてべたつく臭いや動物的野蛮さを持たない。熱さも冷たさも痛みもどこか現実感がない。 だからといってそれが現実からの遊離だとは限らない。なまなましさのない世界、表面的できれいに成形された人工物の手触りこそが、彼らの現実世界の感触なのかもしれない。 一時期、若者がよく実感が持てないといった。現実の中に「現実の実感」がないのだとすれば、逆説的ではあっても、現実感がないことこそが現実世界に近いのかもしれない。
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