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丹念な取材から普遍的なテーマへ |
西尾雅 |
劇団主宰者で作演出を手がけるはせひろいちの特長は、ゲーム好きな推理作家と心理療養の現場に詳しいジャーナリスト、2つの貌を持つこと。独創的なトリックは、普段は観劇などしないミステリーマニアが公演の追っかけをするほど。同時に丹念な取材を重ねる社会派でもある。今回は2つの特長を組み合わせた独壇場のサイコサスペンス。エンタメと問題提起のパランスもほど良い。ひとりの人間の内面を、演劇ではしばしば2人以上で演じるが(典型的なのは良心と悪い誘惑に分裂して争うコメディ)、本作では多重人格(乖離性同一性障害)を役者ひとりずつに振り当て、同時に登場させることで病気の深刻さを浮かび上がらせる。乖離した複数の人格をコントロールできない不安が目の前で演じられれば、きわめて演劇的なこの手法が病気を知らしめるのに効果的と誰にでもわかる。役者が目前で演じる演劇の特質を生かして病気への理解を求め、普遍的なテーマに導く。虐待や依存症は特殊な事例ではなく、社会全体で対応すべき時期に来ている。ミステリー仕立てのエンタメで知識を得ることも演劇のメリットといえる。クリニックに入院中の乖離性同一性障害患者(咲田とばこ)。担当医師(はしぐちしん)が出張中に代理の医師(小山広明)は、断りなく催眠療法を彼女に試みる。いっぽう、患者の姉(小関道代)は病気をより深く理解しようと担当医師の出張先にまで押しかける。患者を心配しての勇み足と思えたこれらの行為の裏側がしだいに透けてくる。治療方針をめぐって医師間にも対立があり、熱心に病状を学ぶ妹思いの姉にも心の病が隠されている。功名心や過去のトラウマを引きずりつつ、人は生きる上で駆け引きを重ねる。幼い頃、姉妹の自宅は火災に遭い、2人は救出されたが両親は亡くなる。それ以来、助け合って暮らしてきた彼女らは睦まじく見えるが、秘密と葛藤を抱えている。2人は母の再婚相手の義父から虐待を受け、義父を強く憎んでいたことがわかる。火災も事故ではなく、真相は2人だけが知る。姉妹は被害者同士の連帯感で結ばれているが、同時に真相を知る相手を警戒し、姉は妹を支配しようとしている。2人の愛情と葛藤は交錯し、姉妹が共有する別人格が患者である妹に新しく出現する。社会生活を送ることができず入院を余儀なくされる妹と、いちおう社会人である姉の差はどこにあるのか。過酷な幼児体験は姉をセックス依存症にし、不特定多数との接触で姉は既にHIV感染症とわかる。精神的にも肉体的にも重病なのは姉の方。患者の姉と交際した代理医師も誉められたものではない。患者を治すべき医師が、心を病んでいない保証はどこにもない。妹は心の内に粗暴な自殺志向の人格や、やわらかなもの言いをする悲観的な人格、客観的にすべてを見つめる人格などを抱えている。基本のパーソナリティを「中心人格」といい、他を「代行人格」と呼ぶことも本作で学ぶ。妹の多重人格は、けれど特異な例ではない。私も虐待に遭ったなら、人生をあきらめ、自分を否定し、自殺を考え、復讐を図るかもしれない。病的なのは、人格を破壊する虐待や、それを隠蔽する家族と社会の方だというのに。治療は功を奏し、妹の「人格統合」は進む。代行人格が中心人格に納まることをそう呼ぶらしい。それは代行人格が消滅し、吸収されることでもある。「正常」に近づく妹は、代償として大きな悲しみを背負う。傷が治れば痛みは忘れる。けれど、代行人格はまさに分身。病気ゆえとはいえ、長く連れ添い、共に歩んだ分身を失うことは大きな犠牲を伴う。多重人格が克服され、分身が出現しなくなったとしても、痛みと悲しみは記憶の底に永遠にとどまる。
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