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カデンツァ 松岡永子
 海辺にたつテントでの芝居。今回の満月動物園はそのことにこだわって芝居を作ろうとしたらしい。その場所へのこだわりは、本来のテントの持ち主・未知座より強いようだ。

 水の中から黒服の男が登場して開演。男の口上で幕が上がると、テントの後部が開いていて、炎の中に少女が立っている。燃える家の枠形の中で、幸せな家族の影絵に少女の手で火が放たれる。

 いかにもテント芝居のラストといった雰囲気のシーンからこの芝居は始まる。その思い切りのよさ、潔さはとてもかっこいい。

 蕗子は父親を殺して家に火を放った。最愛の父が愛しているのは腹違いの姉であり、自分はその色あせた複製でしかないと知ったからだ。父は自分を自分自身としては認めてくれなかった。
 医療少年院を出た後、怪しげな工場に勤める蕗子のところへは父親の幻影がたびたび訪れる。今、父親は彼女の物語の中の登場人物だ。

 十五歳の少女に成人男性の絞殺は(たとえ抵抗がなかったにせよ)可能か、とか、父親が「姉は愛しているが妹のおまえは愛していない」と(本心はとにかくとして)口にするか、とか、蓋然性の低さに思わずつっこみを入れたくなるなるが、それは無意味だ。これは主人公の内側の物語であって、どこまでが事実でどこまでが幻想なのか判然とはしていない。

 姉は自分に似ていたという。蕗子は自分の中から姉を取り去りたい。自分以外のすべての他者の影響を消し去りたい。すべての他者と切り離されて純粋の自分だけになりたい。わたしは何もないところから生まれて跡形もなく消えるのだ、という。
 それでも欠けていく月に、おまえは痛くないのかわたしは痛いよ、という彼女の皮膚は外の世界に触れているらしい。

 フライヤーに書かれた言葉から見ると、彼女が工場でやっているのは「純粋化」する作業らしい。溶媒に漬け、不純物が少しづつ溶け出していくのを見ている。一つの結晶が自身以外の何ものをも含まない、純粋存在になるのを見つめている。
 そんな純粋化のイメージは静謐で、たとえば薄明るい研究室のフラスコを見つめている情景の方が、イメージとしては近い。強酸を使っての作業は、事実としては純粋化するためのものなのかもしれないが、すさんだ工場風景を純粋化の象徴としてはみられない。工場作業は精製だから主人公が他者を含まない自分自身になろうとしている作業と近似だ、というのは理屈であって、象徴のような類似感はもっと感覚的、直感的な共感を通じて起きる。少なくとも芝居においてはそうだ。
 どうも抽象的なイメージを具体物に落とし込むときにしくじっている気がする。それは今回に限ったことではない。

 工場にあおいという娘が工員として新しく入ってくる。
 蕗子のもとに、母親の訃報を持って刑事が訪ねてくる。母親の話は彼女の心を動かさない。刑事は殺された父親を「部長」と呼び、蕗子とは違う彼との物語を抱えているらしいが詳細は語られない。それぞれの物語は交差しない。
 工場のずさんな管理のために大火傷を負った女子工員がくる。補償金の交渉をする工場長に、わたしが欲しいのはお金ではない、なぜわたしがこうなったのかを納得するための物語が欲しいのだという。あおいが女子工員の傷口に口づける。それで傷が癒えるわけではない。ただその痛みに共感する。そのことで傷は物語を持ち、物語の中におさまる。腑に落ちた、と女子工員は帰っていく。

 芝居冒頭に登場した男は、メルヘンとは、ファンタジーとは、と物語論を口にしていた。物語の登場人物たちは、自分の人生を納得するための物語が欲しいらしい。

 劇薬の不法投棄により工場は閉鎖になる。後片づけの最後の日に、あおいは自分が姉だと名のる。この人を殺したかったんでしょ、という刑事の言葉に「わたしが殺したかったのはお父さんの中にいる姉だ(ふつう日本語でそれは「殺す」ではなく面影を「消す」と表現される)」と蕗子はいう。父親を殺したときにそれは永遠に不可能になってしまった。
 あおいは「あなたが妹でなければ傷口に口づけてあげられるのに」という。見知らぬ団欒に憧れていた。それを永遠に奪った妹をどうしてわたしは殺さないのだろう、と思う。
 もうひとりの自分と向きあって、ふたりはただ向きあったままだ。
 時が来たのだろう、父は去る(テントに隣接する海に浮かべた舟で遠ざかるという力業が素晴らしい)。
「わたしはお母さんがなぜ死んだのかを知らなきゃならない」と蕗子はいう。
 これまで母親には興味がなかった。母親は自分ではないからだ。はじめて自分ではないものに向き合う準備ができたのだ。

 他者と出会うこと。
 メルヘンにしろファンタジーにしろ、ふつうはここから物語が始まる。
 この物語は物語以前の物語のおしまいの部分なのだ。そう考えると幕開きのテンションの高さが納得できる。この芝居は全体がラストシーンなのだ。

 と、ここまで書いてきたことは一つの解釈である。それが当たっているかどうかはあまり問題ではない。舞台はそれを見た人がそれぞれに受け取ればいい。問題なのはこの解釈が頭を使っての作業だったということだ。それは作家が想いを具体的なシーンに落とし込むとき、頭を通して理屈で考えているらしいことを示す。芝居を見にくる客のほとんどは頭を使いたいとは思っていない。胸に迫るとか腹にこたえるとか、そんなことを望んでいるものだ。
 頭で組み立てられた物語は抽象的な骨格ばかりで、全体は有機的な繋がりを持ちにくい。
 ただし今回は、水や火、ケレン味たっぷりの役者などが(それが作家の意図かどうかは不明だが)迫力で見せてしまう。物語構造以外の部分が肉感的な手触りを与えていて、骨格に十分な肉付けをしていたと思う。

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