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パフォーマー
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会場
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公演日
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化石の様式美 |
浅川夏子 |
化石オートバイのステージは、いつも無駄がない。 様式美というと大袈裟だが、落語で扇子一本を箸や櫂に見立てたり、音を出したりする身軽さ。あれに似ている。 三人の役者を何役にも見立て、どんなふうにも見えるセットで面倒な場面転換もなく、でも混乱することなく理路整然と物語は進む。過去や未来へのシーンの往来もスムーズだ。この、シンプルなのにちょっとリアルで、でも不思議世界の扉の前に立たされているような浮遊感覚。実は小さい頃に一度感じたことがある。ジャンルはまったく異なるけれど、よく似た感傷を抱かせてくれる作家がいるのだ。 私は化石論をたててみた。彼らは、関西演劇界の藤子不二雄である。 ガンで余命幾ばくもない男・不滅のジョー。彼は、カバンに大金を詰めたアルコール依存症の男・酔いどれキングが運転する車をヒッチハイクする。 「俺は前世もその前の記憶もある。いいことしないと虫ケラに生まれ変わるし、いいことばっかりでも極楽に行っちまう。善悪の収支はトントンだ」 ジョーには過去に200人を殺したマイナスがある。なぜまた人間に生まれ変わると確信しているかは自分にもわからないまま、彼は善悪の+と−をゼロにして人間に転生するため、あてどないドライブを続けているのだ。ふたりは前世が見える少年占い師・ぴょん太郎を拾い、やがてドライブは、彼らを追う探偵から逃げるための決死の逃避行になっていく。 徐々に明らかにされる三人の過去。そして三人の、からみあった輪廻が見えてくる。キングは妻子を飛行機事故で失ったショックから立ち直れないまま、今も飛行機を爆破させる爆弾をカバンに入れ、ジョーは彼の妻が乗っていた事故機のパイロットだという因縁。ぴょん太郎とジョーは親子であることをはじめとした、ねじれの関係性。 “化石オートバイが放つ、渾身の脱力パンク芝居”と銘打っているとおり、ほどよい脱力感がよく利いている。 輪廻や因縁というと漠然としすぎているが、何度も生まれ変わることで見えてくる「人の力ではどうしようもない運命」に、彼らはとりあえず騒ぎもしなければ、泣きわめくこともしないで、ただ淡々と(しかし消極的にもならず)生きているよう見える。 なぜ前世がわかるのか、なぜ生まれ変わるのか、ほとんど説明がないにも関わらず、その“日常のすぐ隣にある非日常を、マジメに受けとめて生活している”という登場人物たちの真摯な態度が、見ている観客を違和感なくSF世界に誘導できているのだと思う。 非日常であるはずのドラえもんが、すんなりと野比家に居候できているように。 徐々に前世の記憶を取り戻しはじめたジョーは、ついに輪廻のきっかけとなる100年程前の記憶を取り戻す。零戦の戦闘機で自爆する使命を負った青年だった彼は愛する恋人のため、「僕は君に出会うため、七回生まれ変わる。七回落ち続ける」と誓っていたのだ。赤ちゃん、学生運動中の青年、ロックスター、マジシャンになりたかったOL。彼は誓いどおり、四回の前世すべてを転落死して終わらせていた。ガンで死ぬと思っていた彼は、自分の運命を知ったうえでまた旅にでることを決意する。キングこと、王野のカバンに入っていた花火が打ち上がるのを、それぞれの思いで眺める三人。 「僕の前世はコンビーフでした」 というすべてが終わった後のキングのオチが、しょぼくれつつもカラッと晴れた広大な空を思わせる。舞台は日本なんだけどアメリカのロードムービーを見ているような風通しの良さだ。 アメリカ文学を彷彿させる、ドライでシャイでスケールの大きい脚本。 柱だけのシンプルなステージに、三人だけのシンプルな役者配置。 すべての素材が、すっきりと作られていて、削ぎ落とされてごく必要な最小限だけで作られているため、逆にあらゆることが目につきやすい。「愛」とか「希望」を大声で絶叫し、抱きあったり泣き合ったりの演劇が目立ってしまいがちな演劇界にあって、「そんなこととてもじゃないけど言えないッス」という風情で飄々としつつ、伝えるべきところはしっかりチラ見せしてくれる化石オートバイ。淡々と描写されるなかで、ふと立ち止まった道端に野草が咲いてたのを見つけたような、ちっちゃな多幸感にしんみりしてしまう。 SFを、(サイエンス・フィクション)ではなく(すこし・ふしぎ)と訳して使いつづけた藤子不二雄のように、ちいさな喜びにこそ幸せがあるという実感を、彼らのステージには、いつもほのかに感じてしまうのだ。
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